魔界、そして非情な世界

魔界と言えば魔物の住む訳の解らない世界、非情な世界と言えば地位も名誉も金銭も経験さえも役に立たない容赦のない世界です。そんなものが身近なところにあるのでしょうか。

それがどこにでもあるのです。日常的であって、しかも誰にも、どうすることもできない暴力的とも言えるその世界、それこそが芸術の世界です。

このところの展覧会に行ってみると技術的には、ほぼ完璧な作品ばかりです。教育制度が進んでいるからでしょう。技術は人から学べるものだから。

様式も整っています。他人の作品や歴史的な文物に触れる機会に恵まれているせいでしょう。型にはめれば無難にそれらしくなるから。

優秀な素質も持っています。親子に渡って芸術的な家庭に育つからでしょう。素質の中には環境も入っているから。

ところが、なぜかスッキリしない。何かが欠けている。ピーンと、はじかれるものがありません。目の覚めるような技術があり、立派に様式が整い、第一級の素質を持っているのに、…物足りない…。

芸術の世界は残酷です。技術があり、様式が整い、素質までもがあっても、それで万全ではありません。ほかの何かが欠けていると満足できません。

この「ほかの何か」が厄介なのです。第一、口で言うことができません。文章でも書き表せません。それくらいですから、教えることも学ぶこともできません。

それはいったい何なのか……。

それこそが、いわゆる「芸術性」というもの、でしょう。

極論を言えば、この芸術性さえあれば他には何もいりません。名前を挙げて恐縮ですが、小椋佳氏は歌うこと以外、音楽的技術はあまり無いし、理論や形式も勉強をしているとは思えません。しかし、その大衆性を ( そな ) えた上での高貴な作風はシューベルト以来のものと私には思えます。いや、シューベルトと比べては小椋氏に失礼かもしれません。彼は芸術性において天性のものを持っているのでしょう。そう、芸術性とは天のものであって、人間のものではないような気もします。

小椋氏は東大に再入学し、哲学の道を極めた人格者ですが、天性のものを持った人の中にはおおいにして人格の欠損している者もおります。

小椋氏に勝るとも劣らない北海道のシンガーソングライターは罵詈雑言の限りを尽くして問題政治家とつるんで悦に入っています。

借金踏み倒しの名人だった石川啄木はお人好しの金田一京助の好意を踏みにじりつつ岡場所に通いました(私は京助の仕事を啄木の仕事以上に評価しています)。

( ぼう ) ( じゃく ) ( ) ( じん ) の勢いで罵倒を繰り返した北大路呂山人には友人が一人もいませんでした。

石部堅吉のように思える島崎藤村に至っては下半身人格の欠損者です。

しかしながら、これらのことは、それぞれの芸術を ( おとし ) める理由には全くなりません。人間性と芸術性は別物であって殆ど関係ないのですから。

この問題は松本清張の「砂の器」や五木寛之の「海を見ていたジョニー」などの文学作品の、そして「地獄の黙示録」や「戦場のピアニスト」などの映画の重要なテーマにもなっています。ナチスが音楽を愛してやまなかった党員で成り立っていたことは、忘れることができません。

芸術性というものは本当に不思議なものです。様式や技術が未熟であっても「その何か」を持っていさえすれば、それは芸術的に一級です。

このことは草野心平が三つの星に ( たと ) えて「天才オリオンズ」と呼んだ村山 ( かい ) ( ) 高間筆子・関根正二などの作品を見れば、すぐに解るでしょう。

3人とも 二十歳 ( はたち ) そこそこで逝ってしまいました。しかも高間筆子に至っては震災と戦災に遭って絵は全く残っていません。粗末な印刷の画集が残っているだけです。それでもそれを見れば「その何か」に驚嘆せざるを得ません。

それに比べ、金の額縁で飾り、高級な美術館に展示され、様式や技術が完璧な水準に達しているものでも「その何か」が欠けていると第一級の芸術ではありません。それが、このところの展覧会場で見られる作品です。

なんとも救いのない論理です。この非情な芸術の論理において否定されると、作者は二度と立ち上がることができません。恐ろしい!

それにしても、いったい何が欠けているのか、もう少し詳しく示せないものでしょうか。

例えば…、音楽でいうと……。

ベートーベンの運命のダダダダーンはミミミドーという2つの音だけでできています。これがもしも逆に、ドドドミーであったらどうでしょう。

ベサメムーチョの出だしはラーララーというたった1つの音でできています。これが同じ1つの音で、ミーミミーであったならどうでしょうか。

芸術性のカケラもありません。

なぜかと言われても的確な返答ができません。せいぜい、「存在感がない」とか「求心力がない」というのが関の山でしょう。「なぜ、存在感がないのか」、「なぜ、求心力がないのか」と問われると、もう、お手上げです。

けっきょく、このよく解らないものは「何か」とか「芸術性」と言うしかありません。逆に、解ってしまうほどのものだと、それは芸術性とは言えません。

このどこか微妙で頼りない、とりとめもなく掴みどころもない、いくら考えても良く解らないものが、実は古来人類を発展させてきた最大の要因であるらしいのです。すなわち、芸術性を感じることは人間の ( あか ) し、と言わねばなりません。

再三ですが、このところの展覧会でのことを、もう1つ示しましょう。毎年5月に上野の東京都美術館で開催される 創彩 ( そうさい ) 展(1974年設立の全国公募美術団体創彩会による展覧会)における若き切り絵作家、 ( すみ ) ( ) ( やす ) ( のり ) 君の作品についてです。

それは押し寄せてくる ( うしお ) の如き無限とも思える点描の世界。しかも1つとして同じ模様はありません。カットされた点描のそれぞれに「ぎりぎりの自分」が込められています。心象の深い部分にカッターを入れ、切り出し、掘り起こし、恐れずに、さらけ出しています。

どれほどの時間と手数がかかっているのか、どれほどの想いと祈りが込められているのか、この集中力はただごとではありません。

想像もつかない集中力は情念の固まりとなって低周電磁波を発しているようです。それは観る者の体がけだるくなり、暖かくなって眠くなるものです。それをこらえて見つめていると、 ( ) ( まい ) がしてくるような、体が浮いてくるような、ちがう世界に引き込まれそうな神秘的な感覚が呼び起こされます。たぶん6Hzから9Hzで脳が直接感じる周波数なのでしょう。あるいは観る者が作品に触発されて ( おのずから ) 発してしまうのかもしれません。

すぐれた気功師は作品の発する気を感じ取れるといいます。長谷川 ( とう ) ( はく ) ( しょう ) ( りん ) ( ) などはその典型なのだそうです。言われてみれば、あの静寂の中には何かが ( ただよ ) っているような気配が感じられます。科学的な証明はさておき、そう考えた方が解り易いのかもしれません。

まさに「 奇貨 ( きか ) ( ) くべし」。奇貨を置くべき世紀の作家が現れました。でも、騒ぎ立てないでおきましょう。騒ぎ立てると奇貨は通貨になってしまいます。それでは文字通り「通過」してしまいますから。

芸術家は未踏峰を目指す単独登攀者同様です。誰かが登ってしまったら、もう意味はありません。前人未踏のルートを命がけで切り開かなければなりません。途中での怪我や病気や事故は当たり前、全てを自己解決しなければなりません。できなければ死が待っているだけ。

私はミュージシャンで登山もしますから、両方の世界に交友関係を持っていますが、実際に ( ) ( ごう ) の死を ( ) げる者は登山家よりも音楽家の方に多いのです。性格や価値観はそっくりです。

友人のアルトサックス奏者、土田真宏氏は溢れるばかりの才能に恵まれながら、ふしだらな生活を矯正できず、緩やかな自殺とも言うべき死に方をしました。

先輩の吉沢元治氏は誰一人としてやらないコントラバスソロコンサートで偉大な成果を上げながら、家庭に恵まれず、孤独死をしました。

モダンジャズ黎明期の天才ピアニスト森安祥太郎は早過ぎた時代の壁に押しつぶされ、鉄道自殺をしました。

また「智恵子抄」の智恵子は自らの画才に絶望し、狂い死にをしました。

芸術家は危険な職業なのです。角野君に幸多かれと祈ります。

ところで、先ほどから芸術論を展開しているように思えますが、よく考えてみると、話は全く進んでいません。堂々巡りです。いわゆる水掛け論、循環論法に ( おちい ) っています。

このことからも、芸術の世界は理屈の成り立たない非情な、そして得体の知れないものが ( うごめ ) いている魔性の世界、と言えるかもしれません。

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