12《大和・飛鳥・奈良》 (日本の原点)

大和は山戸の意味ではないかと第1節で触れておりますが、肝心なその場所は「和名抄」に出てくる「城下郡大和郷」、現在の天理市南部と言われています。その小地名が奈良県全体を表し、後には日本全国をも表すようになりました。これほど出世した地名も他には無いでしょう。

しかし、山にはもう1つ、ステージという意味があります。お祭りの「だし」のことを山といったり、小さな架設ステージ(教壇のようなもの)を山台と言ったりします。このことから考えてみると、もしかしたら邪馬台国は山台国の意味なのではないでしょうか。とすると、大和は「山床」の意味になり、Mountain Place(山処)ではなくSquare Stage(山床)だということになります。

佐賀県吉野ケ里遺跡で飾りのついた胴剣、ライトブルーのガラス製管玉、祭り用の土器などが出土して、歴代の王の墓とされている北墳丘墓(方丘)などがそのステージの原型なのではないでしょうか。しかし、祭りごとをする為には高さ16.5bの主祭殿の3階に神殿があるのではと言われるでしょうが、それは要人の身が危険にさらされるようになった、後の時代に造られたものと思います。おそらく、それ以前の環濠集落の中ではセレモニー場としての方丘が造られ、その上でいわゆる「祭りごと」を行っていたが、後に目的が変わり、独立大型化すると共に、セレモニー器具である銅鐸(注)の形と影響し合って前方後円墳になったのでしょう。そして、前方後円墳になってからも四角い部分が葬送セレモニーのステージとして使われていたことはよく知られています。

また、出雲地方の ( やす ) ( ) 市や隠岐郡西郷町の ( おお ) ( しろ ) 遺跡では四隅突出型古墳と言われる弥生時代の方墳が戦後になって見つかりました。これらはすでに墓の斜面が石で葺かれているので、前方後円墳の前段階と言えます。そして、円筒埴輪は吉備から、鏡を入れる習慣は北九州からなど、周囲の文化を引き込んで大和地方の前方後円墳は出来上がっていったのでしょう。

もっと ( さかのぼ ) って縄文時代を考えてみても、一つの国とも思われる大集落であって1500年間も栄えた青森県の三内丸山遺跡では、やはり、 ( もり ) ( ) と言われる小高い丘が、ほぼ中央に築かれています。発掘の結果、土器の破片が2b以上にも積み上げられていて、土偶がたくさん出土しました。これらのことから、この人工の丘は豊穣を祈る儀式の場であったと推測されています。縄文人も、すでに栗や栃の実などの豊かな実りを願っていたのでしょう。

もう1つ、おもしろいのは「ヤマトはマオリ語のイアマトであり、大きな沼地のある場所という意味」という考え方があります。縄文時代に南方系の人々が入ってきたことは、ミトコンドリアDNA、土器の発見、沖縄海洋博覧会のイベントなどから考えてみて納得せざるを得ません。(5000年前の土器がバヌアツ共和国のエフェテ島で出土し、「ハワイ・ビショップ博物館の鑑定の結果、日本の縄文前期円筒下層式土器が運ばれたもの」という記事が1996814日の読売新聞に出ていた)(1975年ミクロネシアのサタワル島の人たちがカヌーで沖縄まで来た) 海部 ( あま ) 族とか磯族がそうなのでしょう。総理大臣だった 海部 ( かいふ ) さんや磯部さん、磯崎さんなどのご先祖かも知れません。伊勢は磯の転訛で伊勢神宮は磯族の神と言われています。そして、奈良盆地の真ん中に大きな湖があったことは遺跡の分布状況などから明らかにされていますね。

ちなみに、明日香は 新州処 ( あすか ) または 荒州処 ( あすか ) の意味ではないかと言われています。東京都北区の飛鳥山も 音無 ( おとなし ) 川が王子の扇状地に出たところにありますから、それは考えられるでしょう。飛鳥は明日香の 枕詞 ( まくらことば ) です。

          飛鳥 ( とぶとり ) の明日香の里を置きて ( ) なば

                 君があたりは見えずかもあらむ  元明天皇

古事記には「 ( ちか ) 飛鳥 ( あすか ) 」(大阪府羽曳野市飛鳥)と「 ( とお ) つ飛鳥」(奈良県高市郡明日香村飛鳥)があり、明日参上して天皇に会うという意味と難波宮からの距離を表しているようです。政権成立以前の地名に物語を付けてしまうのは古事記一流の面白さでもありますが、「アスクル」(事務用品翌日配達会社がある)を地名にしてしまうとはなんとも恐れ入りますね。

なお、韓国朝鮮語を学ぶとすぐに、「ナラの意味は国」と教えてくれます。

注  銅鐸は元々古代朝鮮の馬や馬車に取り付けられ、カウベルのように音を出して存在をアピールする役割をしていたようです。伝えられた日本では、まだ馬が必要とされていなかったため、新しい使い方が工夫されるようになります。初めは音も鳴らしてセレモニーの合図などをしていたようですが、使われているうちに、権威の象徴や祈りの対象となって大型化し、最大のものでは長さ134センチメートルもあるものが作られるようになりました。その過程において外面が装飾され、狩猟や農耕などの様子が描かれるようになっていきます。これらのことから考えてみても、生活をする上で最も重要な豊穣を願う祭祀に使われたことは間違いないでしょう。

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