3《北浦》(霞ヶ浦の東にあるのになぜ北浦か?)

2000年前、(弥生時代前期)北浦と霞ヶ浦を含んだもっと広い部分は 香取 ( かとり ) の海と言われ、外洋に続いていました。 鹿島神宮は岬になっていて、航海の目印になっていたようです。(古くは香島と書いた)東海道は文字どおり海の道で、人々は鹿島に上陸し、終点の石岡に向かいました。気候変動で湖が出現すると名前を付けなければなりません。

重要地点である鹿島神宮を物の ( ) から守るため、鬼門の寅の方角にできた湖が 鬼虎 ( きとら ) と呼ばれ、のちに北浦に変化したのではないでしょうか。 壁画が発見されて有名になったキトラ古墳も同じ成り立ちと思われます。北浦は人名の場合は〈きとら〉さんと呼びますから。

なお、東北地方の東側に多くの鹿島分社が点在しているのは初期の北への進出がこのルートによって行われたことを示しているのでしょう。

もう一つ考えられることはキトラが百済の転訛ではないかということです。岩波古語辞典によると百済は室町時代まではクタラと清音で発音されていたらしいのです。キトラ古墳に埋葬されていた方はかなり高齢で、推測される高年齢死者、10人のなかでは百済 ( こにきし ) 禅広 ( ぜんこう ) (善光)の可能性が高いそうです。また、この時代の後と思われる鹿島神宮の中臣系大宮司には稲足、富足などの名前が見られるのですが、足をタリと読むのは朝鮮語なのです。中臣鎌足(藤原鎌足)も鹿島の生まれで渡来系の人と言われております。

前項の「クトロキ」も ( クタラ ) が転訛した可能性があるでしょう。キトラの小地名も 久多 ( くた ) 羅木 ( らき ) さんという人名も奈良県を中心にした関西圏に多いようですが、百済人は九州や関東にも、まとまって入ってきています。文頭の 香取 ( かとり ) もキトラの転訛かもしれません。

全国の北浦の地名は、北は岩手県北上市相去町北浦から、南は佐賀県小城郡小城町松尾北浦まで、225ヵ所もあり、海・湖沼・河川に無関係の場所も多いのです。これらが、なんらかの重要地点の、鬼門の方角である北から東にあるのかどうか、または、百済人に関係があるのか、興味は尽きません。

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