ゾウさんとアリさん

「あーっ、どうたんら!」

2歳になった花ちゃんは絵本を見ながら、ごきげんです。

そこにはワクからはみ出しそうにゾウさんが描かれていました。

「どーうたん、どーうたん、おーはなー・・・・ね」

花ちゃんは歌いはじめます。

「どうたん、おおきい」

「どうたん、すきー」

「どうたん、おーおきいね」

花ちゃんはゾウさんのことばかりいいます。

じいじは考えました。

「そうだ、動物園につれて行ってあげよう」

花ちゃんはじいじとおばあちゃんに連れられて

上野動物園に行きました。

お猿さんやペンギンさんを見たあと、

いよいよ本物のゾウさんに会えるときがきました。

「ぅわー、花ちゃん、ゾウさんだよ」

と、じいじがいうと、

おばあちゃんも、大はしゃぎで、

「大きいね、ゾウさん、おっきいね」

と、もう、小走りで近づいて行きます。

……と、

花ちゃんは

「あっー、ありんこだ」

「あーしゃん、いる」

「……ごっちゅんこだ」

しゃがみ込んで、

歌いはじめました。

「あーしゃとあー しゃんごっちゅんこ」

花ちゃんの足もとでは

アリさんが遊んでいます。

でも、老眼のじいじは気がつきません。

「ゾウさんだよ、大きいね」

と、じいじは大きな声でいいます。

おばあちゃんも

「花ちゃん、ゾウさんよ。ゾウさんを見にきたんでしょ」

と、指をさします。

でも、花ちゃんはゾウさんを見ません。

あんなにゾウさんに会いたがっていたのに…。

いや、目の前に山のようなゾウさんがいるんですから

見えてないはずはないんですが……。

花ちゃんはいま、こころの目でアリさんを見ています。

もう、ゾウさんは見えていません。

歌っています。

「あっちむーいちょっちょ、こっちむーいちょっちょ」

「あーしゃとあー しゃんがごっちゅんこ」

ゾウさんは向うへ行ってしまいました。

ゾウさんは花ちゃんにとって、あまりにも大きすぎて、

こころの ( うつわ ) に入りきれなかったのでしょうか。

お隣の男の子は 蟷螂 ( とうろう ) ( おの ) を振り上げているのに…。

花ちゃんは、

小さいもの、弱いもの、かそけきものに、

よりこころを動かされるようです。

こういうことを「もののあわれを知る」と、いいます。

「モノノアワレ」は見えない人には一生、見えません。

お金の好きな人や、ヨウリョウのいい人には、見えにくいようです。

見えないものを「知る」ことはできません。

でも、「見える人には2歳でも見えるんだなぁー」

――じいじは感心しました。

「でも、花ちゃん、お金だって、ヨウリョウだって、

少しはあったほうがいいんだよ」

じいじは小さい声でいいました。

言葉以前の動物的発声が言葉として残ったものが感動詞なのではないでしょうか。「あー」に「れー」がついたもの、今では指示語をかねて「あれー」になっているものが「あわれ」だったのでしょう。それに対象物をつけて日本語として完成させたものが「もののあわれ」なのですから、原始日本人に近い情緒を持っている幼児こそ「もののあわれを知る」ことができて当然なのかもしれません。そして、それを徐々に忘れ去っていかなければ、この世知辛い世の中を生きて行けないことも、また当然なのかもしれません。

(「れー」は茨城方言で、いい・良い・すばらしいの意。茨城には地名・人名・方言などで多くの縄文語が残っている。『縄文語の発掘』鈴木健新読書社)

山河風狂

たらちねの

人は三度生まれ、三度死ぬ

魔界、そして非情な世界

私だけの秋の七草

「欠点が魅力なんですよ」

初級中国語の考察

宇宙と人間の法則

なぞとき地名人名考

音楽はサムシンググレート〜

ゾウさんとアリさん

inserted by FC2 system