河の章
Prologue
回っている水の中心には何もない
見ていると目玉が吸い取られそう
心はすでに吸い取られた
いけない!体もだ
あたまが溶ける
水に溶ける
手も足も
みんな
溶け出して
水と混ざり合う
水のトンネルの中で水と交わる
川の流れのように
人生はよく川の流れに例えられるが、
カヤックで川遊びをしていると、
そのことを実感として、
とらえることができる。
流れに乗って生きることは
容易であるが、
安易を嫌い、
自分だけの生き方を
追求するのであれば、
時には
支流に入って、
世間の評価など気にせず、
自分の価値判断でルートを切り開くべきだ。
そのことによって、
なおいっそう「流れ」を見る目が養われる。
実際の川下りも、まず、
流れを見きわめることから始まる。
多くの人は川の流れ行く風景を見て、
人生の何たるかを思うのであろう、
川を題材にした芸術作品は
クラシックでよくリクエストされる曲にスメタナ作曲、
連作交響詩「わが祖国」の2曲目、「モルダウ」がある。
チェコの大河ヴルタヴァの流れを人生に例えた作品という。
(モルダウはドイツ語、原題はチェコ語のヴルタヴァ、
反ドイツ民族主義の曲なので原題に戻すべきであろう。
下流はドイツのエルベ川に合流)
また、シャンソンの「ミラボー橋」の第3連には
“L’amoure s’en va comme cette eau courant”(アポリネール作詞)
「流れる水のように恋もまた死んでゆく」 (堀内大学訳)
「恋は過ぎ去るこの流れる水のように」 (飯島耕一訳)
第4連には
“Passent les jours et passent les semaines 「日が去り 月がゆき
Ni temps passe 過ぎた時も
Ni les amours reviennent 昔の恋も二度とまた帰ってこない
Sous le pont Mirabeau coule la Seine” ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる」
(堀内大学訳)
とある。
映画では「激流」、「帰らざる川」、「アフリカの女王」などがある。
日本画でも「紅白梅図」(緒方光琳作・国宝)などの本当のテーマは川であろう。
日本文学でも多くの例がある。
方丈記
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人とすみかと、またかくのごとし。」
(流れ行く河の流れは絶えることがなく、いつも同じように見えるが、それでいて、そこにある水はもとの同じ水ではない。流れの淀んだ所に浮かんでいる水の泡は、一方では消えたかと思うと、また一方では新しくできて、長い間同じ状態でとどまっていたためしはない。この世の中に存在する人間と住居とは、またこの水の流れや泡のようなものである。)
「悲しいかな、川は水を
(悲しいことよ。川は水を集めて川をなし、その水は淀みなく、盛んに流れ続けている。一方、人の世は一人一人を集めて成している。その人はだんだんと年老いてゆく。)
論語
(孔子が川のほとりで言われたことには、「過ぎてゆく月日はこの川の流れのようなものであるよ。昼も夜も休みなく過ぎてゆく。」)
「この身は水の泡のごとしと言へる心を詠み
このように、いずれも川の流れに触れながら、
河川は動物の進化の
過程においても、
重要な役割を
石器時代の人類も
水の流れに
縄文時代には黒曜石や
ヒスイやアスファルトなどが、
海や河川によって
驚くほど遠くまで運ばれた。
古代文明も河のほとりで
「ナイルの水を飲むものはナイルに帰る」
「ガンジス河で水浴びした者は
ガンジス河のほとりに帰って死ぬ」
と言われている。
人類は生まれながらにして
流れを見つめ、思索をしてきた。
従って、川の流れや
水の泡に時の流れや
人生を見るのは
世界共通なのであろう。
そして、東洋では特に
無常観思想の具現として
川を見るようだ。
現代日本では
美空ひばりの歌った
「川の流れのように」や
それをトランペッターの
日野
ジャズ作品が高い評価を受けている。
ゆく河の流れにカヤック浮かべつつ はるかに思う
カヤック
小船を手で漕ぐ場合、支点のあるオールを使い、漕ぎ手から見て後ろに進むものをボートといい、パドルといわれる
私はもっぱら、イギリス製のMi350というポリエステル一体成型のスラローム艇を愛用している。少し重いが頑丈で、10年以上使っていても一度も不安を感じたことはない。
川遊びは楽しい!小学生から中学生にかけて私は夏休みの間中、川で過ごした。茨城県の北浦の北岸に流れ込む巴川のほとりで育ったからだ。その小さな川が子供の私には探検しきれないほどの大河に思えた。エビガニ(ザリガニ)取り・ドジョウ取り・ウナギ取り・タナゴ釣り・フナ釣り・泥んこ遊びに水かけ遊び、水泳などをして毎日毎日、遊び暮らした。今でも私の泳ぎ方はその頃、近所のガキ大将に習った水府流抜き手である。
成人してから登山とスキーを始めたのだが、どうも下半身ばかり発達して上半身が貧相になってしまった。その上半身を鍛えるために、40歳になり仕事が一段落したとき、カヤックを始めたのだ。だが、実は子供の頃の川遊びが忘れられなくて、何年も前からウズウズしていたのである。その年の夏から秋にかけて、日本レクレーションカヌーセンターの講習会に参加するため、荒川上流の
本栖湖の月を
しかし、日数からいったら、自宅前の荒川下流を遊びまわっている日のほうが圧倒的に多い。
普通のスキーヤーは三月いっぱいでシーズンは終りなのだが、私のやっているテレマークスキーは山に登ってから滑るので、暖かくなって雪が締まる残雪期の4月・5月は、まだまだ盛りなのだ。富士山などは5月後半から6月前半がもっとも、活動しやすい。
テレマーク雪を
困ったことにカヤックも5月になると気温は上がり、雪解け水が豊富なうえ、鮎釣りがまだ解禁になっていないので川下りには絶好だ。したがって5月は忙しい。山か川か、雪か水か、5月になるといつも悩んでしまう。
そういうわけで私のカヤックシーズンは5月に始まり、11月の前半まで半年以上もある。その間、毎日のように家の前の荒川を登ったり下ったりする。京浜東北線・高崎線の鉄橋の下から出発し、戸田橋までを往復するのだが、ときには笹目橋の上流まで行くこともある。戸田橋や笹目橋の下でハーモニカやコカリナ(木製のオカリナ)を吹くと残響音が広がって、いうにいわれぬ世界に入れるからだ。そんなことをもう20年も続けている。
パドルにて風を切れども風止まず 切れども切れぬ愛念に似て
しかし、その間に周辺ではいろいろな変化があった。階段状の親水設備ができてカヤックを水面に浮かべやすくなり、喜んでいたら間もなく鉄柵で囲まれて入れなくなってしまった。水上オートバイの溜まり場になってしまったからである。水上オートバイの人たちは航路の真ん中にまでブイを立てて、その回りをぐるぐる回りながら飛んだり跳ねたりする。しかも、大型観光船やタンカーが来ると、その引き波に乗るのが面白いらしく、前に後ろに群がるのだ。どう見ても航行妨害であり、危険きわまりない。そのうちに水上交通法規が改正されたらしく、水上オートバイは締め出されてしまった。
その後、お山の大将ならぬ、
河川工事も毎年、切れ目なしに続いている。赤羽側では隅田川への水門の付け替え(赤水門を記念に残し、新設した青水門が稼動)・野外コンサート場・釣り用の歩道橋・赤水門公園の整備・大型船用係留施設・バーベキュー場・野球場・交通公園。川口側でもゴルフ場の改造・新荒川大橋の一部架け替え・耐震補強工事・大型船用係留施設・地下鉄工事にともなう芝川への導水管の敷設・自動車教習所の移設・スーパー堤防上への小中学校新築と川口善光寺の移設・堤防地下への排水ポンプ場の新設、それに両側ともに何回かの道路の付けかえと堤防工事が行われた。
堤防工事の度に土をどこからか運んでくるので植生が変わってしまう。わが家の前の土手は月見草の名所だった。
富士よりも荒川土手の月見草
しかし、それもシロツメクサとアカツメクサの群落になり、今では近くまでゴギョウの群落が攻めてきている。
風景が変わり、植生が変わっても、変わらないのはカヤックを
季節のうつろいも楽しい。新緑から水がぬるむころ、子連れのカルガモに遭遇することがある。なるべくパドルを動かさないようにしてやり過ごすのだが、その可愛らしさといったら、たとえようがない。
やれ漕ぐな カルガモさまのお通りだ
川胡桃は5月になると花が咲き始め、8月には果実が大きくなる。9月になり、二百十日が過ぎると何百個もあった胡桃の実はひとつもなくなってしまう。注意して見ていると、だいたい毎年同じ人が収穫しているようだ。川胡桃の木は崩れた堤防沿いに10bから50bおきに自生しているので、その収穫量はたいへんなものだろう。私も1個だけ取ってきて、何日間か水に浸し、外皮を腐らせて裸にしてはみたものの、粒が小さくて割れないので、そのままになっている。
とっておきは毎年同じ秘密の場所に咲くさくら草だ。群落は少しずつ広がっているように思える。
ひそやかに川辺は暮れてさくら草
ゴルフ場沿いに夾竹桃が植えられているのが少し気になる。花は濃いピンクできれいなのだが、花にも葉にも幹にも根にも、全体に毒がある。知らずに小枝を箸に使って中毒する人がいないか心配だ。
水鳥たちも数が増えてきた。コサギ・カワウ・カルガモ・マガモ・カイツブリにユリカモメ、それに以前は見なかったゴイサギやチュウサギも見かけるようになった。
艇の先コサギゴイサギ群がればパドルをとめてコカリナを吹く
Epilogue
カヌーのアスリートたちは
「今日の水は重い」とか「今日の水は軽い」という。
砂や小石の混じり具合か、比重の違いが分かるのか、
その感性には驚いてしまう。
私に分かることは「水はいつでも重い」ということ、
「もう少し水か軽かったなら楽なのに」といつも思う。
水鳥たちを見ていると、
水中でも水に浮かんでいても軽やかに動いているのに
空中に飛び立つときは、
苦しそうに体をもがき、やっとの思いで、しがらみから抜け、
重そうに、水面すれすれに、落ちそうになりながら、飛んでいく。
彼らにとって水や空気は自由への足がかりであるが、足かせでもある。
おそらく「水が重いなぁ、羽毛が重いなぁ」などと思っているであろう。
私はいつも「水が重いなぁ、パドルが重いなぁ」と思ってしまうのだから。
「いっそのこと翼を捨てて自由になりたい」などと、思うかもしれない。
重い思いの反作用ゆえ、飛べることに違いないのだけれど……。