狂の章

Prologue

狂の字は

犬と王が並んでいる。

3千年前の甲骨文字では、

犠牲として捧げられた犬の傍らで、

王の ( まさかり ) に人が足を乗せた形をしていた。

「狂う」とは神聖な、まさかりの霊力により、

日常を超える力を与えられる意味である。

古い時代の中国では高い理想を掲げ、

日常を超えた自由な生き方をする

反骨の人が、尊敬された。

低く暮らし 高く思う

山高くして 月低く

海深くして 波高し

志高くして 頭は低く

心深くして 思いは高し

孔子と老子

孔子は常識を言っているが、

老子は常識を超えたところを言う。

私は非常識は嫌いだが、

常識も好みでない。

超常識が一番いい!

真実はおおいにして、

常識を超えたところに在る。

温故知新

口 7cm

食道25cm

胃 25cm

十二指腸25cm

小腸 7m

大腸 1.5

合計 9.32

人間は1本の

管である

人間を

物的に

見れば

糞造機

であろう

とすれば

知的産物も

生産時のみ

知的だが

終わって

しまえば

人糞かも

しれない

死んで

しまえば

それらも

即幻影だ

ところが

スカラベ

のように

幻に生を

もとめる

人もいる

わたしが

生まれた

茨城では

うんこを

訛って

おんこ

という

(ゴメン!

( しか ) るに

温故知新

なる言葉を

はじめて

聞いた時

子供心に

妙に感心

したのを

ハッキリ

覚えている

このときの

えもいえぬ

心持ちを

失念忘却

せざる為

知新は

元より

治心

智信

置真

知神を

祈念し

小生の

H・Pの

タイトルを

おんこちしん

にしようかな

ハンドルネームは

ずばり「井伊音呼」

(私はミュージシャン)

にしようかなどと

と思ったのだが

誤解される

ことを

恐れて

止め

人体は乗り物

人体を客観的即物的に見れば

単なる遺伝子の乗り物である

遺伝子は人体という乗り物を

少しも惜しまず、つぎつぎと

乗り捨てて延々と生き続ける

遺伝子にとって人体は単なる

タンパク質と脂肪の塊である

報復の連鎖を断ち切ろう

現代の戦争は民族戦争である。

民族は文化を共有する人間集団である。

人間集団が持っている価値体系を文化と言う。

価値体系が異なった集団同士、つまり、異民族間では

相手に対して不安感と不信感を持ち、お互いに軽蔑しあう。

その意味で、文化とは、他民族に対する軽蔑の体系とも言える。

従って、文化程度の低かった石器時代に戦争は無かった。

わたしたち人類の歴史は400万年と言われているが、

その400分の1、1万年前までは戦争は無かった。

1万年前を境に徐々に悪知恵が発達し、

戦争をするようになった。

「一人を殺せば犯罪者だが、

100万人を殺せば英雄だ」

「一人を騙せば詐欺だが、

100万人を騙せば政治だ」

この理屈を悪知恵と言う。

真の知恵を、はぐくむ者もいた。

キリストは「右の頬を打たれたら、

左の頬をも出しなさい」と言った。

( うる ) ( ) 時国 ( ときくに ) は夜襲に遭い、散ったが

死ぬ前に9歳の子、 法然 ( ほうねん ) に言う。

( かたき ) ( ) ちはするな、憎んで殺せば、

その子も、また、お前を憎みつつ

また、また、殺そうとするゆえ、

生々 ( しょうじょう ) 世々 ( せぜ ) 、殺し合いがつづく。

すぐに出家をして敵も味方もなく、

誰もが、救われる道を求めなさい」

日本山妙法寺を設立した藤井 ( にっ ) ( たつ ) 上人は平和運動家として、ガンディーに影響を与えた。

そのマハトマ=ガンディーが、人類最高の叡智である非暴力無抵抗主義を確立する。

現代のマルチン=ルター=キング牧師や、ネルソン=マンデラ氏がそれに続いた。

しかし、ここに来て、またもや悪知恵主義者が ( ばっ ) ( ) しつつある。

暴力と報復から決して平和は生まれない。

今こそ我々は悪知恵を捨てて石器時代の人々と同じ素朴な知恵に立ち返るべきであろう。

自然と共に生き、命を大切にし、戦争をしない、その方が、人間としては数段上である。

戦争は悲しみや苦しみを作るだけ、

報復すれば、さらに怒りや憎しみを作り出すだけ。

その連鎖を断ち切るには、非暴力と不服従しか方法はない。

「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、

人の心の中に平和の砦を築かなければならない」

(ユネスコ憲章前文)

マンモスやヘラジカ襲う知恵ありて 戦いせざる人の心は

いつからか国境できて戦うは 縄文人は地球人なり

        今すぐに心の壁を取払おう 武器を楽器に楯を言葉に     安正

いろは歌

いろは歌は真言密教祖と縁者が

大般 ( だいはつ ) ( ) ( はん ) ( ぎょう ) の内容を簡潔に、

同音を使わず訳したものです。

人類史上に残る傑作であるとともに

日本文化の根幹を成すものであって

過去の教育の遺物では有りません。

大般 ( だいはつ ) ( ) ( はん ) ( ぎょう ) は釈尊の入滅を機縁として

一切衆生はすべて仏陀となる資格がある

( ) いたもので、大乗経典の一つです。

いろは歌     大般 ( だいはつ ) ( ) ( はん ) ( ぎょう )            大意

(四句 ( )

色は匂へど散りぬるを=  諸行 ( しょぎょう ) 無常 ( むじょう )  = 万物は常に流転していて少しの間も常住しない

我が世誰そ常ならむ =  是生 ( ぜしょう ) 滅法 ( めっぽう )   = あらゆるものは変転して尽きることはない

有為の奥山今日越えて=  ( しょう ) ( めつ ) ( めつ ) ( )  = 生と滅がなくなって共に存しない

浅き夢見し ( ) ひもせず=  ( じゃく ) ( めつ ) ( ) ( らく )  = 生死の苦に対して涅槃の境地を真の楽とする

ものみな移り変わり絶えず生滅していく無常なこの世界に、

浅はかな夢を抱かず、生と滅の法の内に居、

その生滅のはてに酔いしれもせず、

静寂な涅槃の楽しみがある

有為の奥山、

今日越えて

行こう。

「有為の奥山」は「憂い(い=変体仮名)の奥山」とも書かれますが、有為と解釈するべきでしょう。

「奥さん」を「カミさん」というのは男(田の力)を田の神とすれば、女は山の神なので奥山への掛け言葉と思われます。

「いろは歌」以前の日本語アルファベット

ものごとの最初をABCとかイロハというくらいですから、

「いろは歌」がなければ書き言葉を学ぶことはできません。

「いろは」が作られる前はどうしていたのでしょうか。

当然アルファベットに類する手習い歌がありました。

もっとも古いものは「 天地 ( あめつち ) 」といわれます。

「天地」とは古事記の書き出しのことです。

あめ つち ほし そら やま かは

みね たに くも きり むろ

こけ ひと いぬ うへ

すえ(え=変体仮名)

ゆわ(硫黄) さる

おふせよ(生ふ為よ)

えのえを(榎の枝を)

なれいて(馴れ居て)

これを見ると、作者の苦心のあとが見えるうえ、

そのころの生活ぶりが、良くわかり、好ましく思います。

古事記などに出てくる言葉が時代に合わなくなってくると、

田居 ( たい ) に出で 菜摘む我をぞ 君召すと  求食 ( あさ ) り追ひ行く

山城の うち酔へる子等  藻葉 ( もは ) ( ) せよ え舟かけぬ」

という歌らしきものが作られました。

歌らしくなってはいますが、

やはり少々無理があり、

意味の通じにくい

ところがあります。

これらの影響を受け、

仏教思想が込められて、

いろは歌が作られました。

そしてそれは完璧であるがゆえ

それ以上のものは作られていません。

現代国語のアイウエオは別次元のもので

意味のない音の羅列です。そのためにか、

イロハの内容を知る人は少なくなりつつあります。

(個人作の手習い歌はいくつかあります。「いろは歌14編」で

検索するとリンクフリーの素晴らしいホームページが出てきます)

人生には

3つの坂が

あります。

1つは上り坂、

2つ目は下り坂、

3つの坂           最後は「 ( ) ( サカ ) 」です。

実際の坂道でも、

人生においても、

上り坂では問題ありません。

下り坂のほうが危険です。

人生では定年退職の頃でしょうか。

気がゆるんで注意散漫になります。

自宅の階段を踏み外したり、

縁石に足を取られて転んだりします。

一方では振り込めサギにやられたり、

他人の保証人になって失敗したりもします。

でも、本当に大変なのは「 ( ) ( サカ ) です。

マサカは気をつけようがありません。

病気や災害は避けようが無いから恐ろしい。

マサカに遭ったららめ極めることが大切です。

むりやり走り下ると、もっとひどいことになるでしょう。

明らめて、めて、その世界にどっぷりと浸かっていると、

道はなだらかになって、坂とは感じなくなるでしょう。

なぜならば、坂には限界があるからです。

垂直以上の坂道はありません。

垂直を越してしまえば、あとは戻るだけです。

人も自然も宇宙でさえも、限界というものがあります。

生命は限界があるからこそ、新しい生命が生まれます。

限界は淡々として受け入れなければなりません。

動物も植物も自然も、みんな、そうしています。

人間だけがアクセク、ジタバタするんですね。

あきらめるとは受け入れること、限界を受容し、認めること。

これって、あらゆる宗教や哲学の究極だと思いませんか。

家康は重き荷を負いよく登り 下る慶喜こけつ ( まろ ) びつ      安正

親の数は世界人口以上になる

「人は、みな平等であって、

出生で差別されることはない」

このことは今や万人承知です。

では、なぜそうなのでしょう。

1人の

人間には

2人の親がいます。

2人には4人の親がいます。

こうして10代先祖を遡ると1,024人、

20代だと1,048,576人の親が出現します。

30代だと、もう普通の電卓では桁数が足りません。

正確な計算ができませんが10億人以上になるはずです。

130年とすると900年前の世界人口よりも多くなってしまう。

どうしてでしょうか?数知れない重複があるからでしょう。

親戚同士が婚姻すると先祖は共通になり、重複します。

閉鎖社会ほど重複は、また重複するでしょう。

遡るほど当然、閉鎖社会になるはずです。

ビッグバンの反対ですね。

収縮を重ねて結局2

になるはず

です。

火事に遭ってない旧家では

位牌がセットになっていて

10代分も出てきます。

多くは15代くらい前に、

源氏系の婿養子が入って、

姓や家紋も変わっているが

それより以前にまたまた、

10代も続いています。

そこで位牌は途切れても、

当たり前なのですが、命は

途切れることがありません。

位牌が在ろうが無かろうが、

この間の1人でも欠けたなら

あなたも、私も、この世に、

生を受けては、おりません。

この、実体を直視したなら、

昇華されたものが実感でき、

差別も戦争も、できるはずが

ないでは、ないですか。

ですから位牌を見せる

教育ができたら

と思います。

愛の数何億万も交されし「だから私は今ここにいる」   安正

文武両道

古来、文武両道こそ、

人間向上の道と言われています。

一人の人間が学問と武道をやれば、

バランスが良いとのことなのでしょう。

でも、1つの学問の中に文武両道がありますし、

1つの、武道の中にも文武両道があるとも思えます。

人は理念によっては目覚めませんが、

実体を直視することで、

(実態ならば、なお良い)

すぐ目覚めます。

そこの上で、

体感すれば、

忘れません。

体を通じて心が

納得し、手順を快感

として捕らえられるようになれば、

それは脳と筋肉に摺りこまれたことになります。

このことが文武両道ということなのでしょう。

茶道とは歴史と美の実体を、実態を通じて

脳と筋肉に摺り込むものなのです。

ジャズ演奏は脳の筋肉と筋肉の脳が

一体にならなければいけません。

ものごとは体を通じ納得し 手順快感  ( ) ( こう ) 合一 ( ごういつ )      安正

ハングリー精神Hungry Spirit

人は1日3食、食べます。

1年では1095食、(3×365

80年では87600食になります。(80×1095

あと残り何食、食べられるか、気になりますね。

日本人が一生で食べる量を食材別に整理すると、

92俵、たまご26000個、魚介類2.4トン、

緑黄色野菜2.2トン、豚14頭、牛1.15頭、

メニュー別に見てみると、

カレーライス3120皿、

ラーメン2100杯、

カツ丼1000皿、

すし13000貫。

勿論これは最新の統計です。

人類史を食糧事情から見れば、

圧倒的に飢餓との戦いでした。

その長く苦しい戦いの中で、

各個人の思いとは関係なく、

DNAに書き込まれたもの、

それこそがハングリー精神。

満たされない思いが生み出す

野獣の如き闘争心なのです。

空腹が人間のより高い能力を

引き出すということなのです。

脳科学分野で世界をリードする

柳沢正史博士と桜井武博士は、

ハングリー精神の源になる物質

「オレキシン」を発見しました。

(ギリシャ語の「食欲」から命名)

オレキシンの働きは空腹であることを中枢に伝え、

食欲を増進させることなのです。しかし、この時、

脳の覚醒レベルを上げる興奮物質も同時に放出され、

それが集中力を高め、ハングリー精神を生むのです。

人間には空腹によって引き出される、隠れた能力が

長い歴史の間に備わっていたのですね。

断食は

宗教活動

で行われます。

あらゆる宗教が

ハングリー精神から生まれ、

ハングリー精神を求めているからでしょう。

ハングリー精神を生む能力は 飢餓の歴史の贈り物なり

無我になれ

ストレスから自律神経を守るために、なにか1つ、

無我の境地に入れるものを持ちたいものです。

そのために、座禅を組む人がよくいます。

昔はそう簡単ではありませんでした。

禅は禅宗に帰依した人だけにしか、

許されない「秘伝」でした。

修業には座禅だけでなく

経行 ( きんひん ) (歩行)、作務、

写経、読経、

問答、

などが、

行われてきました。

けれども、それは贅沢なことで、

庶民にはそのような時間や余裕はありません。

農民たちは「座禅組むより、こやし汲め」と言われて

休みなく働き続けることが、無我の境地への入り口でした。

当世主流の会社業務は無機質なもので、それすら当てはまりません。

今の世の中で無我の境地を求めるには、やはり座禅をすることがよいでしょう。

  閑あらば肥し汲むより座禅組め 汲めども尽きぬ命あふるる   安正

無我の境地

因果応報、輪廻転生は真の仏教思想ではありません。

それらから、解放され、解脱する道を求めること、

「一切の存在の本質を見通す働き」を求めること、

このことが仏教の本質( 般若 ( はんにゃ ) ( なみ ) ( ) ( みつ ) ( ) )です。

「無我の境地」とは仏教の本質そのもので、

単なる「無心の状態」ではありません。

また、「禅」は何かを求めるために

するものではなく、

「無我」さえも、

求めません。

仕事のモチベーション

私たちの仕事は

生活の糧、生き甲斐、

自己実現、社会貢献の、

4つの目的が交じり合い、

その割合で質が決まります。

エンゲル係数とは家計の総計に対する食費の割合。

それが高いほど生活水準が低いということになります。

では、仕事にもエンゲル係数的な考え方をしてみましょう。

糧を得るための仕事のパーセンテージが高いほど仕事の質が低く、

そのためのパーセンテージが低いほど仕事の質が高いことになりますね。

では、ボランティアのような社会貢献の割合が大部分の場合はどうでしょう。

すべての人がボランティアになってしまったら、経済が成り立たちません。

経済活動が活発であってこそ、生き甲斐も自己実現も成り立ちます。

要は個人的にも社会的にも、仕事に対するモチベーションの

バランスの問題と言えるでしょうか。

    バランスとモチベーションの問題と 仕事の意味を考えてみよう     安正

誰だろう

失敗をすると人のせいにする

人がいなければ物のせいにする

物が無ければ運が悪いせいにする

絶対に自分のせいとは認めない

大人の文化

若者文化が真っ盛りで、 

大人らしい成熟した文化は 

隅の方に押しやられています。

人生の味わいは中年以降の方が、 

格段に深くなるのですが、若者に、 

おもねた大人たちはそれを主張しません。 

テレビ放送は既に乗っ取られてしまいました。 

わずかに、幼児番組が孤高を保っているのみです。 

若者に捨てられたラジオの方が、成熟しているようです。 

Epilogue

古代エジプトの肖像画は必ず左向きの横顔です。「人」という漢字は左を向いた人間が両手をだらりと垂らした姿を模したものです。

少し前、近所にできた散歩道を歩く人は徐々に左側を歩くようになり、今では殆どの人が左側通行になってきました。陸上競技においても左回り左側通行です。

なぜでしょう。人体の左側に心臓が付いているせいなのでしょうか。ならば、まれに、心臓が中央や右寄りに付いている人は、このことが不快でたまらないのでしょうか。

朝のウォーキングで必ず会うある方は右側通行を押し通し、絶対に左側に ( ) けません。

山河風狂

たらちねの

人は三度生まれ、三度死ぬ

魔界、そして非情な世界

私だけの秋の七草

「欠点が魅力なんですよ」

初級中国語の考察

宇宙と人間の法則

なぞとき地名人名考

音楽はサムシンググレート〜

ゾウさんとアリさん

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