母のお宝?

それは平成16813日のことであった。この日は母の93歳の誕生日である。朝からごそごそと押入れを ( まさぐ ) っていた母は午後になって「大切な物を手渡したいから、そこに座って…」という。久しぶりに母の前に正座をすると、「一生の宝と思って、これまで取っておいたけれど、そろそろ、お迎えが来そうなので、譲り渡したい物があるのだけれど…」と、再び言った。畳の上にずり押し出された平べったい菓子の 空箱 ( あきばこ ) には何か重要な物が入っているらしい。だが蓋を開けて覗いて見ると、金目の物は何も無く、手紙や古い写真、それに ( ) ( ) ( かみ ) のような物が入っている。「なぁんだ、でも、なぜこんな物がお宝なのだろう」不審に思った私は一つ一つ点検してみることにした。

(1)父の履歴書

一番上には私が11歳の時、47歳で心不全の為に急死した父が独身時代に書いた履歴書が置かれていた。父は旧制中学を出て、しばらくの間、尋常小学校の代用教員をやっていたが、次兄の寛に ( ) われて仕事を手伝うようになった。寛は縁戚の関係で鉱山主になっていた。

その後その鉱山が閉山し、再就職をするために書かれた履歴書が残されていたのだ。罫線もない薄手の和紙には達筆な毛筆で次のように書かれている。

履歴書

         本籍地 茨城縣鹿島郡巴村大字大和田・・・番地

         現住地 茨城縣鹿島郡巴村大字大和田・・・番地

                         市村 審次

                   明治四十四年十一月十日生

學業

1、大正七年四月  茨城縣鹿島郡巴第二尋常小學校へ入學

大正十三年三月 同校卒業

1、大正十三年四月 茨城縣立鉾田中學校へ入學

昭和四年三月  同校卒業

業務

1、昭和四年八月  茨城縣鹿島郡巴第二尋常小學校教員トナル

昭和十一年五月 鹿島郡新宮高等小學校ニ於テ退職

1、昭和十一年五月 関根鑛業ヘ入社 岩手縣稗貫郡内川目村猫足金山鑛業代理人トナル

昭和十三年十一月岩手縣紫波郡長岡村五ツ森金山ニ勤務中関根鑛業所閉所ニツキ退職

賞罰

1、ナシ

其ノ他

1、昭和十三年十二月 茨城縣ヨリ自動車運轉免許證(普通免許)ヲ受ク

1、昭和六年三月   為我流柔術前目録認許サル

昭和十四年二月五日

右ノ通リニ相違無之候也                     右

市村 審次?

どうも、次兄の寛は山師に騙されたようだ。というのは子供の頃、父から ( かす ) かに耳にした記憶が、今この履歴書を読んだことによって ( よみがえ ) ったのである。

「東京の伯父さんのお屋敷は広くて立派で御殿のようだった」とか「金を掘りに秋田の山奥にでかけたのだが出なかった」とか「もう1ヵ所、金を掘ったのだが、それもだめだった」などという言葉が断片的に思い出されるのだ。そのことを聞いたのは学齢前に寝物語で1,2度のことなので、どうもハッキリしない。現に記憶での場所は秋田であるのだが実際には岩手と書かれているし、しかも物心が付いてから聞かされたことはなく、母に尋ねても同様のことしかわからない。どうも詳しいことは封印されているらしい。

その後、没落した寛の一家は栃木県の塩原に落ち着いた。そして、寛の葬儀には私も駆けつけ、野辺の送りをした。

昭和1312月の運転免許取得に関しては殆どエンジン修理の試験であったと聞いたことがある。当時は交通事故など無く、エンジンが 度々 ( たびたび ) 、故障することこそ大問題であった。しかし、鉱山で大型機械を ( あつか ) ってきた父には、た ( やす ) いことであったらしい。

昭和6年3月の ( ため ) ( ) ( りゅう ) ( じゅう ) ( じゅつ ) ( まえ ) ( もく ) ( ろく ) ( にん ) ( きょ ) に関しては始めて知った。だが、柔道3段の腕前で、試合に出て負けたことが一度も無いとは聞いていた。負けそうになると審判に判らないようにして相手に噛み付いたのだそうだ。対戦相手が「ギャー」とか、「アイタタッ」といえばそれで勝ちになったのだ、と言うけれど本当なのであろうか。

たった1度だけ父の技を見たことがある。それは高さ5bくらいの崖の上の方に生えている篠竹を鉈で切っている時の出来事であった。予想外に鉈の切れ味が良かったせいか、切るべき篠竹につかまっていた父は、スパッと切れた瞬間バランスを失い、ゴロゴロッと崖を転がり落ち始めた。当然、崖下のドブ川に落ちて泥んこまみれになるはずであったのだが、そうはならなかった。一瞬、猫のように体を丸めた父は 背筋 ( はいきん ) をバネにしてドブ川を飛び越え、見上げていた私の前にスタッと着地をしたのである。

為我流柔術とは ( ) ( ばた ) ( もく ) ( ) ( もん ) が創案し、水戸藩を中心に近郷近在において発達隆盛したものであるらしいが、今でも目の奥底に残っている、あの時の 受身 ( うけみ ) の技こそ、その極意のような気がしてならない。

(2)カレンダーの切れ端

次に目に付いたものは約5センチメートル平方のペラペラの紙切れである。良く見ると日めくりカレンダーの切れ端であった。

「へぇー、昔の日めくりカレンダーはこんなに小さかったんだ。まて待て、薄くて読み辛いけれど、ペンでいろいろ書き込んであるぞ」

独り言を言いながら光にかざして見ると、それには昭和16127日の日付と縦に旧一月一日、横には日曜月と印刷されている。それは右から左に月曜日と読むのだとすぐに分かった。そして、「元子誕生、 ( おいて ) 台湾 ( きん ) ( ) ( せき ) 鉱山、昭和十六年一月二十七日午前九時五十分誕生、体重一メ百五十 ( もんめ ) 巳年 ( みどし ) 」と、小さな文字で隙間を埋めるように書かれている。1貫150匁を換算してみると4.3キログラムとちょっとになる。初産にしては随分大きな赤ちゃんだ。姉が生まれた日は旧暦の元旦なので元子という名前が付けられたこともこれで分かった。

前記の「父の履歴書」はこの金瓜石鉱山に就職する為に書かれたものであったらしい。たぶん、同郷の先輩、 蜷川 ( にながわ ) さんの勧めがあったのだろう。そしてその後間もなく、長兄一雄の計らいによって母と結婚することになるのだ。しかしながら、2人はそれまでに1度も会ったことが無く、母はわずかな手荷物と父の写っている小さな写真を持っただけで台湾に渡ったらしい。そこで元気のいい赤ちゃんが生まれたのだから、それはそれは嬉しかったに違いない。

(3)第一期種痘済證

3つ目もまた紙切れだ。今度は10×15センチメートル、薄ピンク色の厚手で上質紙、カードのようなものである。印刷と書き込みを全部写してみよう。

No.8 第一期種痘済證

臺北 ( たいほく ) ( キー ) ( ルン ) 郡瑞芳街 金瓜石

       市村 元子 

昭和十六年一月二十七日生

昭和十七年三月種痘(第1回)

善感 四顆

右第一期種痘ヲ完了シタルコト

ヲ證ス

昭和十七年三月  日

臺北州基隆郡瑞芳街長 宮川三二?

注意 此ノ證ハ第二期種痘ヲ受クル迄保存スベシ當該吏員又ハ

   警察官吏ノ請求アルトキ此ノ證ヲ提示セズ若ハ之ニ代ル

 ベキ證明ナキトキハ拾圓以下ノ科料ニ處セラルベシ

元子が、生後12ヶ月目に受けた最初の 天然痘 ( てんねんとう ) の予防接種記録証明書である。この証明書がない場合、つまり、種痘を受けなければ10円以下の罰金だそうだ。当時の10円は相当な価値があったらしく、この接種を拒むことは事実上できなかったらしい。母は不安を感じたらしいが、それは的中し、その3日後から姉は40度以上の高熱を4,5日間も発し続けた。そして、その間に長時間のヒキツケ(乳幼児に起る発作性の全身痙攣)を何べんも起し、爪は紫色になって、主治医の杉浦先生には「もう、諦めるしかないですね」とまで言われたそうだ。 ( かろ ) うじて命は取り止めたものの、姉の脳細胞は何分の1かが破壊されてしまった。この件に関して母は自分の責任だと考え、随分思い悩んだらしいのだが、これは現在ならば、国家賠償に値する医療ミスであろう。しかし、その為の証拠にしようなどという思いは特に無く、とにかく、口惜しさの伴うこの紙切れを意地でも捨てることができなかったらしい。

(4)伯母の詩文

薄手の上質な半紙にペン字がぎっしりと書かれたものが2,3枚でてきた。伯母、松田いねの ( じき ) ( しょ ) である。インクの薄れ具合と用紙の変色した様子から見て、また文中の数字から逆算して、30年以上前に書かれたものらしい。

亡き母、亡き父、亡き兄へ 

松田いね

母の思い出

お母さん……こう声を出してお呼びできたのは、私が十一歳の暮れ大正七年十二月十日迄でした。それから五十有余年、心の中だけで呼び続けたお母さん……夢で結構ですから出て来て「いね子大きくなったね、私がこの世におさらばした歳より二十年も長生きしているお前は、どうしていつ迄も私の胸を恋しく思っているのですか?」と、大きな声で叱って下さい。どんなに叱られても、どんなに泣いてみても、限りなく恋しい母の胸、あの手の暖かさ、優しさを忘れなさいと言う方が無理でしょう。

わが母上の思い出は

雪の沢山降る宵に

( どんぶり ) 片手に ( まき ) の木に

積もった雪をすくい取り

砂糖を混ぜて食べさせて

くれた味は今も尚

忘れられない母の味

生涯かみしめ生きてきた

あの味をもう一度と

願う私が無理かしら

孫を抱いたる今日の日も

何故に恋しい母の胸

母の思いで数ある中で

私がある日風邪を引き

頭の痛さに耐えられず

ハッカをひたいにつけた時

瓶から流れたハッカ油が

私の左の目に入り

痛さに泣いて叫んだ折り

母がかけ寄り私をば

堅く抱きしめて慌てて

涙とハッカを吸い取って

くれた唇あの感触が

六十余年の今も尚

昨日の様にまだ暖かく

残る思い出懐かしい

母ちゃんと呼びし思い出数あれどお袋さんとは呼べぬ悲しさ

お父さんが大好きだった蕗の塔に寄せて

春に先がけポックリと

かわいい頭を持ち上げて

土の上に頭を出し

そっとこの世をのぞいている

可憐な姿の蕗の塔

お前の姿を見る度に

思い出しますお父さん

子供の頃に父上が

楽しみながらお前をば

お味噌汁へと振りかけて

一口一口味わった

あの楽しさをもう一度

味わわせたいこの気持ち

不幸な生涯送って去った

父上眠る芝宿の

お墓の前迄根をのばし

かわいい顔をのぞかせて

父さんどうぞ召し上がれ

この世に出てきてくれるなら

私もなりますあの蕗に

蕗の塔見る度思う父上が手にてもみもみ味わう味噌汁

父の歳近づきにけり我が ( よわい ) ほろ苦き味の蕗の塔かな

春始め思いで深き蕗の塔父の墓にも生えてたもれと

晃兄さんを忍びて

晃兄さん、齢を重ねて四十四年、ここに二度びお目にかかれたような気が致します。私が朝鮮に行ったのは、昭和三年一月二十一日でした。当時、兄さんは、長い長い病床にありまして、私の結婚を大そう喜んで下さいました。これを久君にやってくれと言って、大島紬の羽織を私に手渡して下さいました。学生時代、主人とお互いに下宿を訪れ合って、若き日、大いに語り合ったそうですね。主人はいつも申しております。晃兄さんは自分と違い、人も羨む最高学府に学び、将来どんなに大きく羽ばたくかと、子供心に大きな期待を寄せていたそうです。それは、私達兄妹も同じ思いでした。

お父さんは晃兄さんに総てをかけて、お母さんの亡きあと一人寂しく生きながら、苦しい学費を毎月送るその様を十歳位の私は、まざまざと見せられたものでした。子供心にも医学博士の甚一叔父さんの後に続いて、二度び我家から、やがて法学博士が生まれ出るものと固く信じ、小さな胸を轟かせていたものでした。

恐しや、病魔は二十七歳の兄さんの体に喰い入りました。お父さんは入院費を惜しみ無く使い、あらゆる治療を続けましたが、ついに四年の病床と三十一歳の若さに別れを告げ、母の許へと逝ってしまいました。子供のなかった兄さんは、要三郎さんの情けの ( ) ( じるし ) の右の下で四十四年眠り続けておりました。

この度、兄弟妹達の心からの供養で石が建ちました。霊魂は不滅とか申します。今日からはこの石の下で安らかにお眠りください。 

十歳年下の妹 いね子より

晃兄さんおはします

あの世へ届け

私の切なる言葉

なんという心情に溢れた詩文なのであろうか。これは是非とも、いとこ会の方々にお読みいただきたい。

ついては、母のコメントを添えておこう。

「蒔の木は屋敷の入口に門柱代りとして2本植えられていました。

母が雪にかけてくれた砂糖は白砂糖です。当時、白砂糖は大変な貴重品で一般には黒砂糖か、少し茶色がかった〈わじろ〉と言う砂糖しか使えず、それでも使える家は良い方だったのです。この雪白砂糖?の出来事は私も、はっきりと覚えており、姉同様、心に深く残っております。

私は風邪をひかない子だったので、母にハッカ油を塗っていただいた思い出はないのですが、頭痛や発熱を軽減するため、当時はよく使われました。

要三郎さんは10代以上前の先祖から分かれた分家の当主で、当時は本家よりも財力があったようです。要三郎さんが気を利かせて石製の線香台のようなものを目印に置いてくれていました。要三郎さんは晃兄さんが大好きだったので、お葬式の時には弔辞を読んでくれたのです。

晃兄さんは東京丸の内の丸ビル隣接の会社に勤めておりました。住まいは上野桜木町の借家でしたが、月給が60円なのに家賃50円の豪邸に住んでいたのです。その 理由 ( わけ ) は、麻生町の富豪、高崎三十郎家から迎えた妻、〈とく〉さんの兄弟、〈しょう之助〉さんと〈けいしょう〉さんが上京の折の宿舎を兼ねるため、高崎家が家賃を負担していたからです。その妻も自分の長期療養を理由に離縁せざるを得なくなってしまいました。後におとく姉さんは銚子の大きな醤油屋さんへ再嫁したのですが、子供を一人産んだ後亡くなりました」

山河風狂

たらちねの

人は三度生まれ、三度死ぬ

魔界、そして非情な世界

私だけの秋の七草

「欠点が魅力なんですよ」

初級中国語の考察

宇宙と人間の法則

なぞとき地名人名考

音楽はサムシンググレート〜

ゾウさんとアリさん

inserted by FC2 system