花吹雪はるかはるばる九十四

市村ふみ 2005年 94歳

(聞き書き 市村安正)

私は1911年(明治44年)8月13日、前島家12代目 隼之介 ( はやのすけ ) と、〈まつ〉の三女として茨城県 行方 ( なめがた ) 八代 ( やしろ ) 村大字 上戸 ( うわど ) 小字 芝宿 ( しばじゅく ) 潮来 ( いたこ ) 市)、 常陸 ( ひたち ) 利根川と 夜越 ( よろこし ) 川の合流点近くで生まれました。正確には隼之介の長男、 武治 ( たけはる ) さんと長女、〈ふき〉さんは〈まつ〉の子ではなく、先妻さんの子なのです。先妻さんは小川町で評判の美人でしたが、前島家に嫁いで、二人目の子のふきさんを生んだとき、産褥熱で亡くなりました。ふきさんも先妻さんの ( ) ( どころ ) の小川町に嫁いだのですが、ご主人、子供、共に、あまり時を隔てず、亡くなってしまいました。

私達のまつお母さんは ( たち ) ( ばな ) ( はま ) (現玉造町)の 舟串 ( ふなくし ) 家から来てくれた方で、後に〈いね〉姉さんの夫となる ( ひさし ) さんはまつの兄(舟串家当主)の次男です。

ですから、実質的にまつお母さんの長男は ( あきら ) 兄さんなのです。その後、次男と三男が生まれたのですが、どちらも1歳未満で亡くなりました。当時、母は 脚気 ( かっけ ) だったらしく、脚気の母親のお乳を飲んだ子は殆ど助かりません。その為、次に生まれた ( けい ) ( ) 兄さんは一時的に里子に出されたのです。 新島 ( しんしま ) 村の庄屋をしていた方が、当時、隼四朗お祖父さんの囲碁の友達で、舟に乗って、しょっちゅう我が家に遊びに来ていました。その方のお奨めで、子供を産んで母乳が余っていて体力のある方を、乳母に頼んだようです。その新島村の里親の家に、母が様子を見に行ってみると、慶治兄さんの為に送った産着を ( ) ( きょう ) ( だい ) の方が着ていて、慶治兄さんはボロをまとっていました。びっくりして、それからは何でも2人分都合をしたのだそうです。

その母も私が7歳で小学1年生(1918年)の12月、スペイン風邪で亡くなってしまいました。このスペイン風邪は世界中で何千万人もの人が亡くなり、兵士が死に絶えて、第一次世界大戦が収束してしまうほどの、歴史上最悪のインフルエンザだったのです。

私の生家は代々、庄屋の家柄なのですが、私が子供の時も父は村民から請われて、村長に就任しておりました。その村長を村議会議員で財力もあり大男の、時田松太郎氏が尋ねて来たとき、当時4,5歳だった甥の ( ひさし ) (14代目当主)が「おじいさん、松太郎が来たよ」と隼之介お父さんに言ったのです。今考えると大笑いなのですが、当時は当たり前のことで誰も笑う人はおりませんでした。父は親しみをもって村民を呼び捨てにしていたので、幼子もそれを当然と思い、真似をしたのでしょう。また、それが通る世の中でもありました。

私の最初の記憶は3歳の時に子守り ( ねえ ) やにおんぶをされて、牛堀町商店街の 提灯 ( ちょうちん ) 行列を見に行ったことです。(第一次世界大戦参戦祝賀か)

 4歳半で、妹の〈こと〉ちゃんが生まれた時のことは、今でもはっきりと覚えております。1月23日の夜明け前に、泣き声が聞こえ始めました。こっちゃんは可愛らしい声をしていますが、産声は音程が低くかったのです。命名は〈さと〉だったのですが、使用人が村役場に届ける途中、毛筆で名前の書かれた半紙を、よく乾かないうちに二つ折りにして持って行ったので「さ」が左右対称に写ってしまい、変体仮名の「こ」になってしまったのです。でも父は「神様が付けてくれた名前だから、その方が良い」とかえって喜んでおりました。後年〈さと〉の名前は私の末娘が、私の ( さと ) で生まれたこともあり、〈さと子〉として復活しました。

私が入学した八代小学校はお年寄りの先生が多かったのですが、4年5年時担任の 鴻巣 ( こうのす ) 先生(牛堀の鴻巣医院のご子息)は若くて頭脳明晰、長身ハンサム、教育熱心で流行の先端を行っておりました。先生はオルガンを弾くのが上手で、東京で 流行 ( はや ) っていて、田舎ではまだ知られていない「森の娘」という歌を弾いてくれたりしたのです。「どこから私しゃ来たのやら、いつまたどこへ帰るやら、咲いてはしぼむ花じゃやら」という歌詞でした。その後、私も見様見真似でオルガンが弾けるようになったのですが、先生には「ふみちゃんは耳でオルガンを弾くんだね」と言われました。その頃の楽譜は数字譜とかハモニカ譜というものだったのですが、それが読めなかったからです。でも生徒でオルガンが弾けたのは八代小学校創立以来、私が始めてとのことでした。

私が高等科に在学中には、牛堀の須田分家のお嬢さんが、東京の跡見女学校に在学していて、制服の紫色の袴がとてもステキでした。その制服への憧れと、もともと上京したい気持ちが強かったので、跡見女学校に進学したい ( むね ) 、父に頼んでみたのですが、叶いませんでした。

晃兄さんが慶應義塾大学を卒業後、内臓疾患で東大病院に入院してしまったからです。診察をしてくれた院長先生は、当時具合の悪かった大正天皇をも診察をした方で、主治医の 恒次 ( つねつぐ ) 生は消化器科では日本一の先生だったのです。その恒次先生が言うには、晃兄さんの病気は日本で2例目の症状で「潰瘍性慢性悪性大腸カタル」といい、1例目は死亡したとのことでした。入院期間は4年にも渡ったのですが、先生の不吉なお話のとおり、ついに兄は亡くなってしまったのです。大学の学費が1万円もかかったばかりなのに、その上に医療費がまた1万円もかかってしまいました。当時の1万円は立派な家が1軒建てられるだけの価値があったので、父は家2軒分の財産と前島家の希望の星を一気に失ってしまったのです。病院からは支払いが遅れない人はめったにいない、と誉められたのですが、その費用を捻出するために父が熟慮の結果、土地を手放そうとしていることが分かると、私の希望を強くは言えなくなってしまいました。

しかたなく潮来女子技芸学校(現潮来高校)に入学したのですが、結果的にはその方が、 明日間 ( あすま ) 卯之 ( うの ) ( すけ ) 先生や終生の友、長瀬よし子さんと巡り会えて幸せだったと思っております。

明日間先生は水戸近辺の旧制中学の校長を、ちょうど定年退職するときで、私学からの高給での校長職の依頼をことわり、生まれ故郷の八代村に近い、潮来女子技芸学校の事務職として赴任してくれたのです。が、実質的には教職員や生徒は勿論、全町民が認める校長でありました。清水屋の跡取り娘の〈よし〉ちゃんが言っていましたが、明日間先生が赴任してきたとき、前任地から大勢の人が見送りに来て、名残を惜しむため、清水屋に泊まってから帰った人も随分いたそうです。長兄の武治さんは明日間先生に対して、先生という尊称だけでは物足りず、明日間大聖人とか明日間大先生と、常日頃、言っておりました。この「茨城3大教育者の中の1人」と言われる程の明日間先生は、偉ぶったところが全く無く、体も小柄なので、ときには小使いさんと間違われたりしたのです。しかし、ひとたび、お話を始めると、その内容は簡潔明瞭にして慈愛と真心に満ち溢れたものでした。そして、あまり、お声が大きくないので、一言も聞き逃すまいと、全員 ( しわぶき ) 一つせずに聞き入ったものです。「分け登る麓の道は多けれど同じ ( たか ) ( ) の月を見るかな。金剛石も磨かずば玉の光も添わざらん」など、お教えいただいた人生訓が今でも思い出されます。

長瀬よし子さんの旧姓は井上さんで、お祖父さま、お祖母さまである八代村上戸の観音寺のご住職夫妻に育てられていました。高等科では1年上でしたが、私が高等1年から飛び級をしたので技芸学校で同級生になったのです。お話をしてみると、すぐに気心が合うことが分かり、私が観音寺に遊びに行ったり、修学旅行の前夜など、よし子さんが我が家に泊りに来たりする仲になりました。よし子さんも、明日間先生をとても尊敬していて、朝礼訓話などを聞きながら、よく筆記をしていたものです。後に長瀬 ( ほう ) ( りゅう ) 氏と結婚し、北浦村吉川の平福寺の住職夫人となり、技芸塾を開き、近隣の婦女子を教育する立場になりました。そのときに明日間先生からお教えいただいたものが、すこぶる役に立ち、よし子さんの教育方針は父兄の間でも大評判だったそうです。後に私の長男安正と次女ひろ子も夏休み中、お世話になり、お二人の人間味溢れる、お教えを受けることができました。また、次のような逸話もあります。観音寺が手元不如意だったとき、前島家が援助をし、そのお返しとして金属製の鳴り物のような物をいただきました。それを慶治兄さんが庭で投げたり、蹴飛ばしたりして散々遊んだのだそうです。ところが後で、それが古くて貴重な物だとわかり、今では水戸の歴史館に展示されたりするのだそうです(注)。

というわけで、技芸学校は思っていたよりも楽しく、有意義に過ごす事ができて卒業したのですが、私はもっと多くの知識を得たかったのです。それ以上の学校に行かせてもらえない事は察していたので、たとえ代用教員でも教員になれば向学心が満たされると思いました。

職業婦人には下賎の者がなる時代だったので、教員志望を言い出すと案の定、親戚中の者に反対されました。その中で、〈こう〉姉さんだけが賛成してくれ、 八代 ( やしろ ) 小学校の大澤 ( ぶん ) 次郎校長に頼んでくれたのです。大澤校長は父をとても尊敬していて、私達には必ず「ご尊父様は…」と言っておりました。そして、村長である父と共に婚礼用貸衣装の慈善事業を始めて、県庁と文部省から表彰された方なのです。

お陰さまで私は19歳の時に ( かなめ ) 小学校へ単身赴任することができました。それまでは自分でご飯など炊いたことがなかったので、間借り自炊生活には苦労をしました。小澤忠男氏、斎藤みよえさん、池田 ( しずか ) 氏、仲島 椿吉 ( ちんきち ) 氏、田谷芳江さん、東山恒雄氏、加納 ( せい ) 氏など、今でも訪ねて来てくれる方々がその時の生徒さんです。しかし、戦死した方も数多く、それが、なんとも悔やまれてなりません。

大戦に散りにし教え子数々に 霊 ( やす ) かれと靖国に詣で

あどけない学童なりし教え子の  幾年 ( いくとせ ) 過ぎて初老となりぬ

教え子の互いに睦し同窓会 喜寿を目指してあと 幾年 ( いくとせ )

教え子の初老となりて絵筆執り その輝きを誇りとぞ思う(池田静氏へ)

短歌もどきか、語呂合わせか、つたないものを読んでみました。

22歳の時に 津知 ( つち ) 小学校(旧潮来町)に転任しました。「自宅から通えるように」と県視学の小沼仙松氏の配慮だったらしいのですが、自分としては要の生徒達に愛情を持っていたので不本意だったのです。純朴な要の子供と違い、津知の生徒は擦れていたので性に合いませんでした。

そのうちに県教育界に疑獄事件が起こり、聖職と言われている場が ( けが ) されたようで 嫌気 ( いやけ ) がさしてしまったのです。当時は不景気で就職難の時代だったので、「私は働かなくとも暮らせるのだから、誰か生活に困っている人に職を譲った方がいい」と思い、24歳の時に退職しました。

25歳の時に慶治兄さんが長男の埋葬の為に満州から帰省しました。その当時は満州ブームで日本中が沸き返っていたのです。私の満州に行きたい気持ちと、兄が自分の部下と結婚させたい気持ちが一致して、私は満州に渡りました。

兄が勤めるハルピンの電電公社に私も勤め始めて間もなく、秀治を生んだ兄の妻〈あい〉さんが産褥熱で入院、ついには亡くなってしまったのです。それからは兄の二人の子、行江と秀治を母親代わりになって育てました。

兄の部下との縁談は私の方が気に入らなくて ( ことわ ) ってもらったのですが、国際都市のハルピンでの生活は白系ロシア人や名家令嬢などとの交際もあり、それはそれは華やかで楽しいもので、今でも忘れることができません。

 

ふみ    山崎玲子さん 太田美恵子さん            ふみ

栃木名家令嬢 太田道灌の子孫        

  

     ガーリャさん       ハルピン競馬場で大田美恵子さんと   ふみ(冬支度)

惠子さんが後妻に入る頃、子供達はすっかり私になつき、私も情が移ってしまって「秀治を私に下さい」と兄に言ったのですが「結婚して自分の子供を持った方がいい」と ( さと ) されてしまいました。

27歳の時に日本に帰りました。実家には挨拶程度に立ち寄りましたが、落ち着いた先はこう姉さんの嫁ぎ先、水戸の大金家でした。「器量が悪いのに田舎に住んだら、もっと、すすけてしまうから水戸に来なさい」と、こう姉さんに言われたのでお世話になることにしたのです。

こう姉さんも独身時代は向学心に燃えていて、おばあさんの家(隼四朗の後妻の実家、麻生の奥村家)の〈かね〉さんが卒業した土浦女学校には当然入学できるものと思っていました。ところが、「嫁仕度の費用と両方は無理」と父に言われ、やむなく潮来女子技芸学校に入学したのです。

卒業後は良縁に恵まれた上、父が援助してくれたので裕福でした。前出の大澤校長が退職して出身地の水戸にいたので、長男巌の家庭教師をお願いしたりしていたのです。

こう姉さんと、いね姉さんは19歳で良縁を得ましたが、私は出遅れてしまったので、もう、後妻の縁談しかありません。でも、とにかく戸籍の綺麗な人がいいと思っていました。

こう姉さんの主人、大金六郎氏は水戸工兵隊の鶴巻隊長直属の将校(後に隊長)で隊長にはたいへん可愛がられていました。その鶴巻隊長の所へ大和田の市村一雄氏が息子の市左衛門さんの入隊挨拶に伺った時、隊長は彼の人品骨柄を見て、よほどの名家で大地主の当主と思い込み、男惚れをしたらしいのです。隊長が市左衛門さんの試験の結果を気になされたので、大金氏が「8番です」と答えると「1番にしておけ」と言われたそうです。

こうして、市左衛門さんの教育係になった大金六郎氏は市村一雄氏と度々会うことになり、六郎の義妹ふみ(私)と一雄の末弟審次の縁談がまとまったのです。

昭和15年11月、私はまだ見ぬ人の写真一枚とわずかな荷物を持って台湾の 金瓜石 ( きんかせき ) 鉱山(金、銀、銅を産出)に勤める審次のもとにに嫁ぎ、社宅に落ち着きました。

  

           審次 ふみ             審次が戦地で4年間身につけていたもの 実物は9.513.7p

審次は旧制鉾田中学校卒業後、大和田小学校代用教員(市村一衛氏を2年生時担任した)をへて、次兄の寛がオーナーである岩手の鉱山から 金瓜石 ( きんかせき ) 鉱山へ転属して来ていたのです。

昭和16年1月には長女元子が生まれ、9月には夫が召集されました。元子は1歳2か月時の種痘で高熱を発し、その後、たびたびヒキツケを起こすようになってしまいました。夫の軍務中にも会社からは給料の何割かをいただいておりましたが、この間、上司の蜷川さんには何かと大変お世話になりました。夫からは半年ごとに元子の写真を軍事郵便で送るように言われ、そのようにしておりましたが、戦況の悪化と共にそれも届かなくなってしまいました。

昭和20年8月15日には、重大発表があるからラジオの前に集まるように会社から言われ、いわゆる、玉音放送を聞きました。戦争に負けたことは雰囲気で分かったのですが、それ以外の内容は良く聞き取れませんでした。

昭和21年3月、焼け野原の 基隆 ( キールン ) 港(3里離れた台北も焼け野原)から引揚げ船に乗れた私と5歳の元子は広島県の竹原港に着くことができましたが、一便前の船は太平洋上で浮遊機雷に触れて沈没し、乗員乗客全員が亡くなったそうです。

上陸した広島と汽車で通過した東京の惨状は目を覆うばかりでした。

限度額1000円の手持ち金は鉾田駅に到着した時点でなくなってしまいました。そこから先の交通手段はタクシーしかありません。運転手さんに交渉すると、後払いで良いとのことなので、ぎりぎりのところで大和田の市村家に、たどり着くことができました。タクシー代は姑がお米で清算をしてくれました。

夫はそれより9日前に戦地のボルネオから既に帰還しており、生死不明の夫との突然の対面は生涯で最も劇的な瞬間でした。

  

    一雄市左衛門せん? いちみよ ?              市村本家

(みよ姉さんの里帰りのとき、近所の人も一緒)

夫は30歳で2等兵として召集。生意気だったので上級兵にいじめ抜かれた上、ボルネオ戦線では1部隊3000人中36人の生き残りなのです。生来、神経質な面もあったのでしょうが、そのときの飢餓と怪我とストレスで人が変わってしまい、暴力亭主になってしまいました。私の腰が90度以上曲がってしまった事もその暴力が原因なのです。

その夫も昭和34年に47歳で心不全のため、急死してしまいました。長女元子17歳、長男安正11歳、次女ひろ子8歳、三女さと子5歳の真冬の寒い日のことでありました。

正確に言いますと、夫の死以前に次女の ( もも ) ( ) と次男の ( つぎ ) ( ) を亡くしております。「死ぬ子見目良し」と、よく言われますが、百代は本当に美しく、利発で心の優しい子でしたのに3歳で亡くなり、次世も同様でしたが1歳の誕生日を待たずに亡くなりました。加賀千代女が子を亡くしたとき読んだ句、「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」を実感してしまうことになったのです。一人二人の子を亡くすのは当たり前の時代とはいえ、あまりにも、むごいことでございました。

この前後の窮乏のとき、親戚、兄弟、友人の方々には言い尽くせぬほどの、ご恩を受けたのでございます。特に〈いね〉姉さんにはこのときに限らず、幼いときから物心両面で支えていただきました。

たらちねの母にも勝る慈愛にて 妹二人いとしみたもう

また、夫の親友である遠藤三郎様には子供たちの父親代わりになっていただき、ひろ子のランドセルを買っていただいたり、ご近所衆との海水浴などのレジャーに参加させていただいたりしました。ところが、そのことが近所の噂の種になり、その後、遠藤様から「もう、訪ねることはできません、強く生きるように」との通知があったのです。遠藤様と夫は尋常小学校からの同級生なのですが、旧制中学時代には先生方にも一目置かれるほどの硬派でした。不条理には徹底的に反抗し、豪傑振りを誇示するために、鉾田川のドブさらいをして、鍋で煮立てて食べたりしたのだそうです。そのような楽しいお話と共に、お世話になった数々のことは終生忘れないでしょう。 前出 ( ぜんしゅつ ) の長瀬様ご夫婦にも食べ盛りの子を毎年1ヵ月以上も預かっていただき、お礼の申し様もございません。そして、大和田小学校の真家先生、仲田先生、遠藤先生のお子様方の預かり代で我が家の家計は大助かりでした。このとき、幼子だった小熊浩子さんとは、いまだに親戚付き合いをいたしております。

この時代を乗り切ると子供たちが成長して、私にもやっと安楽というものが訪れるようになりました。

昭和42年に安正が下富田の坂下正之助氏の長女静枝と結婚したのです。鉾田町大和田には元子と共に昭和48年まで住んでいたのですが、その後、安正の家族のいる埼玉県 新座 ( にいざ ) 市に転出し、渋谷区本町に転出していた、ひろ子とさと子とも同居することになりました。

昭和51年にひろ子が、いね姉さんのお世話で原宿表参道の細井家の長男、俊秀に嫁ぎました。細井家の本貫は 美野里 ( みのり ) 町で俊秀の父の母の従妹は現天皇の 乳母 ( めのと ) だったそうです。

昭和52年にさと子が桶川市の秋山家の5男、 安司 ( やすじ ) に嫁ぎ分家しました。

昭和53年、新座市のアパートの階下がカラオケ屋になってしまったので、安正が新築した埼玉県川口市の家に一緒に住むことになったのです。

もう27年も ( ) ってしまった川口市の住まいは、生まれ在所に似て荒川と芝川の合流地点の広々とした風景の中にあり、 ( つい ) の棲家として、とても気に入っております。

春は家の前でお花見を、秋には7人の孫と2人の曾孫を含めた一族19人が庭で繰り広げるバーベキューパーティーを何よりの楽しみとしております。

花吹雪はるかはるばる九十四

2005年 46日 芝川(自宅前)にて

 観音寺

 本堂(県指定文化財)は5.5m四方の寄棟造で、茅葺である。建築様式は和様を主体とするが、部分的に唐様を用いている。建立年代はあきらかでないが、 ( かえる ) ( また ) などは古い様式であり、室町時代末期ごろと推定されている。

 また、この寺には銅製の ( わに ) ( ぐち ) (県指定文化財)がある。鰐口とは社寺の軒下にかけ、前に垂らした綱を引いて祈願のために打ち鳴らす楽器である。この鰐口は、直径29cm、最大の厚さ9cmで銘文があり、1352年( ( かん ) ( のう ) 3)年に領主 内蔵 ( うちくら ) 国安 ( くにやす ) が願主となって奉納した、県内でも屈指の古い鰐口である。

茨城県の歴史散歩 山川出版社 234

山河風狂

たらちねの

人は三度生まれ、三度死ぬ

魔界、そして非情な世界

私だけの秋の七草

「欠点が魅力なんですよ」

初級中国語の考察

宇宙と人間の法則

なぞとき地名人名考

音楽はサムシンググレート〜

ゾウさんとアリさん

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