姉のこれまで

昭和161月、台湾の台北近郊で生まれる(64歳)。12ヶ月時の種痘で高熱を発し、右耳聴力全失、及び知的障害となる。療育手帳による障害の程度はB。5歳で終戦を迎え、茨城県鉾田町に引揚げる。小学校は低学年のみ通学し、日々、ブランコに乗って過ごす。従って、読み書き計算はできない。日時、曜日は辛うじて理解できる。排便を失敗することがある。入れ歯は持っているが装着能力がない。ゆえに柔らかい物を食べる。高脂血症である。

成人後も母親に溺愛されたためか、所謂お殿様状態となる。他人に対しては滅法愛想がよいが、家族に対しては「バカ!デレスケ!シンジマエ!」などの暴言を吐く。弁は立ち、挨拶などは私よりも巧い。

私が再教育をすることや福祉施設を使うことを希望しても、母が「鉄格子の中に入れられてしまうから」と言って頑強に反対する。

1979年、川口市に引っ越す折り、母が「自分の荷物は自分でまとめて」と言ったことがきっかけで、所有物を増やすことに異常な執着心を持つようになる。それ以来、ゴミ置き場から新聞紙などを拾ってきては溜め込み、1日中、広げたり折りたたんだりの荷造り作業をするようになってしまう。

その「宝物」が廊下は勿論、部屋の半分まで占領して同室の母が生活困難になったとき、初めて私に方策が任される。(1993年、本人52歳、母82歳)

川口市役所障害福祉課との折衝が始まり、まず朝日作業所を見学、面接に行くが、折からの不況で庭の草抜き作業しか無いからと言われて断られてしまう。

20022月より火、金曜日に社会福祉協議会のヘルパーさんに散歩を中心としたストレス開放の介助を受けるようになる。

20034月よりデイサービス施設〈めだかすとりーむ〉に月・水・木曜日と通えるようになる。

お陰さまで家族へ八つ当たりする状況(1ヵ月以上の間、大袈裟な身振り手振りを加え、ものすごい形相で大声でわめき散らし、良く体力が続くと思うこともあった)は大分緩和

されるようになったが、完治せず、還暦間近の私と妻には対応しきれなくなってきた。

200412月、歩行困難となった93歳の母は姉と同室を嫌い、居間にごろ寝をするようになる。(母は姉がいじめるからとは絶対に言わず、他の理由を挙げる)現在、母は戸田中央総合病院に入院中だが、退院後には自室に介護用ベッドを置き、万全の介護をしたい。

これらの理由のため、川口市役所障害福祉課と相談し、ショートステイから始め、その間に埼玉県心身障害者入所施設との折衝をすることになったが、本人に癌の疑いのある病巣が発見されたため、状況を見ながら進めることになる。

2005年 821

茜の里施設長殿                        市村安正(弟)

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