男のダイエット法

ダイエットをするに当たって、最大の問題は「七転び八起き」が通用しないことである。失敗すれば必ずリバウンドする。失敗するくらいなら、やらないほうが良い。やるなら、一発で決めるべきだ。

そのためにはまず、何を置いても精神構造の改革が必要である。それができれば成功したことも同然だ。すなわち「食べるということ」の哲学的命題を解決することである。「なぜ、何のために食べるか」ということを掴み取れば良い。

女性は美しくなるためになら何だってする。以前は鏡を見ながらスリムになった自分を想像することしかできなかったが、今ではコンピューターで美しく修正した画像を見ながら自分自身を洗脳することができる。男はそうはいかない。どうしても理屈で迫るしかない。

まず、命は命をもってしか、維持できないことを確認する必要がある。食物連鎖の頂点にいるのが人間なのだ。生ることは殺すこと、食べるためには生あるもの命を奪わなければならない。そのことを自覚するためには、自分で「生きている命」を調達することが早道であろう。できれば、釣ってきた魚などを自分でおろしてみると良い。少なくとも、山菜や茸、自家栽培した野菜などを自分の手で、しっかりと摘み取ることが必要である。様々の命を実際に絶つことによってしか、命の重さは実感できない。

子供の頃、私は父親が ( にわとり ) ( つぶ ) すのを手伝った。家業の手伝いで蛇を ( ) る同級生もいた。雀や山鳩を空気銃で撃つ青年もいた。鰻やドジョウは誰でも取り放題だった。それらはすべてご馳走で、すきっ腹を満たしてくれた。ダイエットなどという言葉はなかった。

悲しかったのはペットのつもりで飼っていた2羽の七面鳥が売られていったときだ。いなくなった寂しさよりも、誰かに食べられてしまうことを考えると気が狂いそうだった。そのくせ、潰した鶏の羽をむしり取ることは、平気というより親子丼を思うと嬉しかった。鶏や卵の数はどこの家でも、家族の体重と巧い具合に吊り合っていた。

このようにして、私の世代は目の前に生きている命を自分に取り込むことを学んだのである。

命は命を取り込んでしか成り立たないことが実感できれば、無駄な殺生はせず最小の命を取り込むだけにしようと思える。それどころか「起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」というがごとく、人間一人の分際というものも素直に理解できる。分際を越えてはならない。分際を越えると、きりも限りもなくなってしまう。文明の暴走は一人の人間が分際を越えたところから始まる。一々例は挙げないが、越えた人も周りの人も不幸になることが目に見えている。

しかしながら、時代を逆行させることはできない。私の世代と同じことを今の人たちが体験することは不可能であろう。そこで、提案であるが、「と場」を見学してみては、いかがなものだろうか。そうすれば体験はできなくても、確かな経験になるはずだ。「と場」とは屠殺場のことで、最大なものはJR山手線の品川駅 ( こう ) ( なん ) ( ぐち ) から徒歩5分の所にあり、正式名は東京都 ( ちゅう ) ( おう ) ( おろし ) ( うり ) ( ) ( じょう ) ( しょく ) ( にく ) ( ) ( じょう ) という。場内の「お肉の情報館」では生産流通経路・衛生対策・食肉の歴史・差別や偏見の経緯などを学び、作業風景などの映像も見ることができる。(と場は全国で221ヶ所ある)

それもできない人は鎌田 ( さとし ) 著、岩波新書565の「ドキュメント屠場」や、森達也著、理論社刊の子供向けの本「いのちの食べかた」などを読むとよい。どちらも屠蓄と共に避けて通れない差別の問題をも深く考察している。

次に、食前食後の儀式と食中の作法が重要である。このことによって同じものが餌同然になったり、干天の慈雨の如き貴重な食物になったりする。

曹洞宗では食前に食事訓を唱える。

( ) ( かん ) ( )

( ひとつ ) には功の多少を ( はか ) ( ) ( らい ) ( しょ ) ( はか ) る。(この食事が 調 ( ととの ) うまでの多くの人々の働きを思い考えます)

( ふたつ ) には己が ( とく ) ( ぎょう ) の全欠を ( はか ) つて ( ) ( おう ) ず。(この食事を頂くにあたって、自分の行いが相応しいものであるかどうかを反省します)

( みっつ ) には心を防ぎ ( とが ) を離るることは ( とん ) ( とう ) ( しゅう ) とす。(心を正しく保ち、過った行いを避けるために、貪りの心を持たないことを誓います)

( よっつ ) には正に良薬を事とすることは ( ぎょう ) ( ) ( りょう ) ぜんが為なり。(この食事を身体を養い、力を得るための良薬として頂きます)

( いつつ ) には ( じょう ) ( どう ) の為の故に ( いま ) ( ) ( じき ) を受く。(この食事を仏様の教えを正しく成し遂げるために頂きます)

天台宗では食前観と食後観を唱える。

食前観

吾今幸いに仏祖の加護と ( しゅ ) ( じょう ) の恩恵によって、この清き食を受く。

つつしんで食の ( らい ) ( ) をたずねて味の濃淡を問わず。

其の功徳を念じて品の多少をえらばじ。

いただきます。

食後観

吾今此の清き食を終りて、心ゆたかに力身に充つ。

願わくば此の心身を捧げて、己が業にいそしみ、

ちかって四恩に報い奉らん。

ごちそうさまでした。

カトリックでは食前に祈る。

神よ、

あなたのいつくしみに感謝して、

この食事をいただきます。

ここに用意されたものを祝福し、

わたしたちの心と身体を支える糧としてください。

わたしたちの主、

イエス=キリストによって。

アーメン

プロテスタントは父なる神へ呼びかけてから、「主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン」という以外、特に決まった形式はないようだ。

作法としては、いずれの場合も ( むさぼ ) らず、よく噛んで食べれば、それで十分であろう。

最後に「お勧め食材語呂合わせ」を示したい。

       お茶

       魚

       海藻

       納豆

       酢

       きのこ類

       ねぎ類

乗り越えてみてこそ 己本来の存在理由と位置が目に見ゆ    安正

山河風狂

たらちねの

人は三度生まれ、三度死ぬ

魔界、そして非情な世界

私だけの秋の七草

「欠点が魅力なんですよ」

初級中国語の考察

宇宙と人間の法則

なぞとき地名人名考

音楽はサムシンググレート〜

ゾウさんとアリさん

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