ある ( みょう ) ( こう ) ( にん )

市村ふみ(明治44年、潮来市生まれ)の介護記録

200412月はじめ(93歳)

歩行困難となり、居間に、ごろ寝を続ける状態となる。「どうして、お部屋の蒲団で寝ないの?」と聞いても、「みんなと一緒に御飯を食べるのに、一々移動するのが面倒だから」という。そのうちに食事も水分も取らなくなり、理由を聞いても答えない。しつこく聞くと「もう、十分生きたから、食べなくていい」という。

今まで、人の面倒をみる事に生き甲斐を感じ、人に迷惑をかけることを極度に嫌ってきた母は、私と妻におむつを替えてもらうようになってしまったことと、たぶんもう1つのある理由に耐えられなくなり、絶食をしているようだ。訪問看護師の藤田さんに説得をしてもらい危機を乗り切る。

枯れすすき心の ( ほむら ) 収まりて

写真、手紙などの整理を始める。

20051月(94歳)

私がスキー教師の仕事を自制して家にいると、「遠慮しないで、早くスキー場にいくように」という。「出かけた後では、あと何日と言いながら、指折り数えて帰る日を待っているのよ」と妻はいう。

あい変らず、居間の絨毯の上に敷いたホットカーペットにごろ寝である。蒲団を敷くことを何遍も勧めるが、「下が固い方が寝返りをしやすいから」などと言って敷かせない。

初雪やむつき取替え臥す母の

箪笥の中を整理する。お裁縫をする。

2月

私のスキーの仕事が忙しく、10日以上も入浴をさせてやれない日があっても、「ちょうどいい」という。

雪雲の隙間わずかに日の射して

いざりながら、押入れの整理をする。

3月

もう一つの押入れの中も整理をする。きれいさっぱり、身の回りの品を捨て去り、着替えと裁縫道具のみ残す。日向ぼっこをする。

春風や人間本来無一物

4月

車椅子に乗り、都市農業公園や芝川沿いで、お花見をする。

節くれて満開なりし老い桜

5月

妹たちに車椅子を押してもらい、芝川遊歩道や家の周りを散歩する。手入れするのが楽しみだった庭も見たいといい、隅々まで見てまわる。

庭の隅なすびの苗も独り立ち

6

「車椅子の散歩はもういい」という。「どうして」と聞くと、「疲れるし、腰が痛いから」という。

大好きだった、お裁縫もしなくなる。梅雨を眺めて過ごす。

雨を呼ぶ母のこころに咲くあやめ

7月はじめ

左右の腰骨の出っ張りに1円玉と5円玉くらいの大きさの ( じょうく ) ( そう ) 床擦れ)ができる。「痛いだろう」と言っても「痛くない」という。痛くないはずはないのにと思う。

河童の屁腰の痛みも床擦れも

7月なかば

床擦れは塗り薬により、傷がふさがり、皮膚は黒ずんでいるが大分良くなった。

今まで1日に3回から5回、読んでいた新聞を読まなくなる。

床擦れが痛いという。治っているのに痛いというのは変だと思いつつ、車椅子に乗るときに使っていたドーナツ型円形座蒲団をあてがう。骨盤の横が痛いようだ。

7月24日(日)

円座は扱いが大変だからいらないという。海老のような体型になっているため、寝返りを打つ時に必ず一度起き上がってから方向転換をするのだが、それがやりにくいようだ。

藤田さんが、蒟蒻のような感触のクッション座蒲団(商品名はボンマット)を2枚持って来てくれる。

ボンマット ( いた ) 心太 ( ところてん ) 蒟蒻 ( こんにゃく )

726日(火)

「蒟蒻座布団のお陰で昨夜は良く眠れました」という。

毎月1回往診してくれている ( ) 西 ( さい ) 外科のR先生から電話があり入院の指示が出る。藤田さんにお願いをして説得を試みるが、「管を繋がれ、雁字搦めにされるのはいや、我が家で楽しく終わりたい!」といい、入院することを断固拒否する。

大利根が恵み賜いし吾が母を 返せしところ嗚呼 ( いずく )

727日(水)

昨夜は1時間半しか眠れなかったらしい。

藤田看護師から「心拍数が40しかないので、いつ心臓が止まってもおかしくない状態です」と言われる。

ひろ子、さと子夫婦の3人来宅。私と妻を入れた5人(同居の姉はデイサービスに出かけた)の前で、幼少の頃、利根川で溺れそうになったことなどを明るく話す。

話の最後に、「ひろ子さんとさと子さんは素晴らしい夫に恵まれ、ボクも素晴らしい妻に恵まれ、孝行の限りを尽してもらい、みんなからそれぞれ大切にしてもらって、幸せな人生でした」と言いつつ、一人一人と笑顔で握手をする。

常々の感謝の気持ち ( たずさ ) えて 祝祭日の如く逝かんと

728

午前1時。「眠れなくて」と言いながら、妹のことちゃんが戦争中に苦労した話をする。

午前2時。私も横になる。

わずかな気配を感じたので目を明けると、起き上がろうとしている。「どうしたの」と聞く。45度まで体を持ち上げ、「寝返りを…」と言ったところで、「アーッ」という声を出しながら、びっくりしたような顔をして、急激にもとの姿勢に戻り、頭が絨毯の床にぶつかる「ゴン」という鈍い音がした。飛び起きて確認をすると、固く目をつむり、呼吸は完全に止まっている。心拍も確認できない。すぐ、大声で二階にいる妻を呼び、海老のようになっている体を無理に仰向けにして支えてもらい、心肺蘇生法を試みる。

2回の人工呼吸と15回の心臓マッサージが2セット終わったところで時計を見ると午前235分であった。4セット目が終わったところで「ごほっ、ごほっ」と咳きをしながら弱々しい呼吸が始まった。止まりそうなので、もっと続けようとすると、電話口から「呼吸が始まったら、心臓マッサージと人工呼吸は止めてください」という声が聞こえた。妻が電話をスピーカーホーンの状態にして119番につないでくれていた。

藤田看護師来宅。(妻は消防よりも先に藤田さんに連絡をしてくれていた)すぐに脈を取ってくれ、「しっかりしています」と一言、言ってくれる。

救急隊到着。隊の一人が「どうなってんだ、この体は」という。あまりにも腰の曲がった体型が信じられないようだ。

救急車に収容。妻が付き添いのため同乗し、私は入院に必要なものを取りに家に入る。戻ってきてもまだ出発しない。同じ事を3度繰り返しても、まだ救急車はいる。もう、する事が無くなってしまった。

川口工業病院、博慈会記念病院、川口済生会記念病院、川口救命センターに拒否され、やっと、戸田中央総合病院に搬送されることになった。

車を運転して救急車の後に続こうとすると、「くれぐれも信号は守ってください」と言われる。しかし、出発してすぐ、一方通行を逆進され、置いて行かれてしまう。しかたなく、隊員に教えられた道順を思い出しながらマイペースで走るが、最後の詰めで分からなくなってしまった。

薄暗いところに止まっている乗用車に人影が見えたので行ってみる。救急車に置いていかれたことをいうと、アベックの女性の方が運転席の男性に「あんた、先導してやれば?」という。大助かりだ。少し走ったらすぐ止まり、「ここは有料駐車場だけど、今の時間は無料、救急の入口はあそこ、帰り道はあっち!」と指を指しながら男の方がぶっきらぼうに教えてくれる。「どうもありがとう。テレホンカードだけど」といいながら、ポチ袋をさし出すと「いらない、いらない」と言って手を横に振る。「いま、あんまり使わないからなぁ」と私がいうと「いや、そういう意味じゃ…、じゃあ、もらうよ」と言ってにっこり笑った。

救急処置室の前に坐っていた妻に「5分くらい遅れたかな?」という。救急隊員から挨拶があり、搬送の遅れを詫びられる。

当直医が「今、心臓の専門医を呼び出し中なので、少し、お待ちください」という。

救急隊員から「署に戻ります、お大事に」と挨拶があり、もう一度、搬送の遅れを詫びられる。

循環器の専門医であるA先生がレントゲン写真を見ながら、優しい声で丁寧な説明をしてくれる。「叩き起こされて、眠いはずなのになぁ。良かった、この人ならば安心して任せられる」と判断する。「心臓の電気信号を司る神経がよく働かないために、拍動が乱れています。ペースメーカーをつければ…」とのこと。

首に小さな穴をあけて血管から外付けペースメーカーのコードを心臓に入れる手術の承諾書を書く。

540分、手術が終り、母が収容されているICUに入室を許される。マスクと防菌衣を身に着けるのは始めての経験だ。

まず、机の前に座り、白衣の女性から、これまでの経緯を詳しく尋ねられ、記録される。意識はあるのかどうか聞いてみると「あります、話しかけてみて下さい」と言われる。

妻と共に母のベッドの横に行く。腕の血管を見ると力強く脈動をしている。触れてみると、かなり冷たい。思い切って、「お母さん!」と言ってみる。パッと目を開いた。「胸をなでおろす」とはこのことか。目はすぐにまた、つむってしまった。

先ほど、いろいろと「事情聴取」をした白衣の人が、ICUの出入り口まで見送ってくれ、「心臓マッサージ、すごいですね!」と言ってくれる。「山とスキーをやっていますから」と答える。朝7時ちょうどに駐車場を出た。

10時、ひろ子夫婦とさと子が来宅。ひろ子夫婦は既に病院に行って来たという。「どうだった」と聞くと、「眠っていたけど、看護婦さんに聞いたら、生年月日は言えたし、水も欲しいと訴えたので大丈夫らしい。埋め込み式ペースメーカーの相談をしたいから、お昼頃来て欲しいらしい」という。ひろ子の夫は仕事に復帰するためにすぐ帰った。

昨日から一睡もしていないので今度は私の心臓がおかしくなりそうだ。横になっていると病院からの電話で起される。やはり、埋め込み式の件だ。時計を見ると、1時間半ほど眠れたようだ。

皆で簡単な食事をし、ガラス工芸の生徒さんの予約が入っている妻を残し、ひろ子、さと子と私の3人で病院に行く。

12時半に到着。すぐにカウンセラー室のようなところに案内され、A先生から説明が始まる。「外付けペースメーカーは1週間しか使えません。内蔵ペースメーカーにすると5年から10年間、使えます。感染症の危険や後々のことを考えると早めに取り替えた方がいいんですが」という。「但し、諸々のリスクがあって…」と言い、母は上向き姿勢が取れないから手術が難しいこと、動くと肺を傷つける危険のあること、そうすると管をつけて溜まった空気を外に出すための処置をしなければならないこと、高齢になるほど血管が硬くなり絡まってくるので手術が大変なこと、90歳以上の人には装着するのは初めてのこと、感染症の危険がかなりあることなどを言われる。

「せっかく助かった命なのでお願いします」と私がいうと「妹さんはいかがですか」と先生はいう。妹たちは返事をしない。「はっきり、意思表示をして」と私が ( うなが ) すと、ひろ子が「お願いします」と言い、さと子は深くうなずく。

手術は午後45分から540分までかかった。

A先生からの第一声、「手術は成功しました」。またもや、胸をなでおろす。「ですが…」と先生の表情が少し曇る。「全身状態が悪く…」と言い、白血球が1000近くになり、炎症反応も7以上あって、レントゲンで見た結果、肺炎であること、尿酸値が高いこと、肝機能も悪いこと等を告げられる。「予断を許さないということですか」と私。「なぜ、手術前に言ってくれなかったのだろう」と心の中で思い、後で妹たちにそのことをいう。検査に時間がかかるので、どうしようもないのであろうか。

手を握って「お母さん!」と声をかけると目を開いて握り返してきた。確かに意識はある。「良かった!」 三度 ( みたび ) 、胸のつかえが下りた。

名も知らぬ人の心か雲の峰

7月29日(金)

病室は昨日のICUから循環器の一般病室に移っている。「おなかがすいた、お昼はまだ?」という。「まだ、お医者さんから許可が出ていないから、御飯は食べられないけど飲み物はいいよ」と答える。クラッシュアイス2粒とお茶を4口取った。「起してちょうだい」というのでベッドを90度近くまで上げてやると、3,4分間、寄りかかっていた。すごい回復力だ。

夏草や捲土重来明治人

7月30日(土)

酸素吸入器が必要とされていない事に驚いた。「起して」というので昨日と同様にすると「痛いからやめる」という。すぐに元に戻す。尿酸値が気にかかる。本人が床擦れの痛さだと思ったのは痛風の痛みだったのか。痛風は始めてだ。

孫のルミ夫婦が見舞いに来てくれる。妊娠中のルミのお腹を撫でながら、満足げに微笑んでいる。来年の1月の出産日が過ぎるまでがんばって欲しい。その前に813日の94歳の誕生日もある。どさくさにまぎれて私も娘のお腹に触れさせてもらった。

身二つになりし吾が ( ) に合歓の花

「夕方にはおろしリンゴを食べたんですよ」と看護師さんが言う。私どもが姉と夕食を取るために自宅に一端戻ったときの出来事のようだ。夜になって酸素吸入が始まる。なんと言っても肺炎なのだから。

731日(日)

ひろ子夫婦とさと子夫婦に美咲ちゃんが見舞いに来てくれる。「美咲ちゃんが美人になった」という。昼食時には缶詰の桃を食べたようだ。

2度目に行った時、用意された夕食を3分の1ほど食べ終わったところであった。微熱が続き、酸素吸入と点滴は続けられている。

蒟蒻クッションが欲しいという。病院側ではすでに柔らか目のマットに取り替えてくれているのだが、気に入ったものを持ち込んでも良いとのこと。

81()

訪問看護ステーション〈しんあい〉に電話をする。まず、夕食を食べた話をすると喜んでくれ、クッションのお願いをすると、「例の試供品があるので、それを提供しましょう」と言ってくれる。有り難い、本来は入院したら、看護ステーションは無関係なのに。

蒟蒻クッションを腰骨にあてがってあげると、表情豊かに「ああ、よかったぁ!」という。

レントゲンを部屋に持ち込み、ベッド上で撮影してくれたが、前向き姿勢を保つのに、かなり痛がる。肺炎の所見のためだから、やむをえない。

夕食はお粥、魚のフレーク、大根おろし、ゼリー、カツオだしスープなどのいわゆる「練習食」を半分ほど食べた。

これまでに10万回も食事して またもや学ぶ練習食で

看護師さんに昼食の介助もして良いのかどうか尋ねると「ご家族がしてあげたら喜ぶでしょう」とのこと。(原則的に面会時間は午後2時から8時まで)

82日(火)

今日から昼食の介助はひろ子とさと子で分担し、夕食の介助は私と妻でするようにする。電話連絡は毎日、私からひろ子へ、ひろ子からさと子へすることにする。

昼は、ほぼ完食。「レントゲンの体位をとったときの痛さが、まだ残っていて食欲が無いから夕食はいらない」と言っていたのだが、妻が巧く勧めると、3分の1ほど食べた。

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3食とも、ほぼ完食。だが体中が痛いらしく、食事の体勢を作るのが大変だ。「死ぬほど痛い、死んだ方がましだ」という。痛風は吹いて来る風が当たっても痛いから痛風というらしい。

空間認識がおかしくなってきた。自宅の自分専用の引出しがベッドの横に有るようなことをいう。若い人でも、こんな思いをしたら頭がおかしくなるであろう。

「大雨が降って大変だったでしょう」という。夢でも見たのか。

蝉鳴くか篠突く雨か耳鳴りか

84日(木)

昼、2割。夜、3割。痛みが激しくて、あまり食べない。何処を触られても痛いのに、毎日レントゲン撮影があるので可哀そう。しきりに、疲れたという。痛み疲れか。

蒟蒻クッションのカバー(布の袋)がバラけるので、糸で縫って始末を良くしたが、体を持ち上げると痛がるので、尻の側に置いただけになってしまった。

ひろ子にも大雨が降った話をしたらしい。耳鳴りか、吸入装置のせいか。

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朝、昼は痛みが強いせいで全く食べないが、夜は完食。

「早く来て欲しい」と言っている旨の電話が、ひろ子からあり、4時に行った。体を少し動かす事をしきりに要求し、「もう少し、もう少し」という言葉を連発する。動かす度に痛がるので、動かすふりだけするようにする。

8時の別れ際に「こころぼそいなぁ」という。昨日までは「早く帰って、昼寝でもした方がいい」とか、「空気が悪いから、あまり長くいない方がいい」などと言っていたのに…。

これまで、誰よりも強く、毅然とし、気丈に生きてきた母が弱音を吐くのを始めて聞いた。明日からは出来る限り付いていてあげることにしよう。

尿管と酸素の管と点滴と むつき当てつつ母は乱れず

退院してきた母を今までのように知的障害の姉がいじめては困るので、しらゆりの家(川口市立心身障害者短期入所施設)に預かってもらうよう決心する。そのための診断書作成のため、 ( ) 西 ( さい ) 外科に姉をつれて行く。

市の基本健康診査も同時に受けた結果、なんと!肺に直径15ミリの影が見つかる。紹介状を持って11日に帝京大学付属病院に、精密検査を受けに行くことになってしまった。

姉に肺の説明をしたが解らない。

肺癌の「肺と灰ではどう違う」知的障害の姉は尋ねん

レントゲンだけで異常を発見したR先生は名医であろう。その名医に、これまでの母の経過を書いたものと障害福祉課に提出する姉の施設入所希望のための書類を閲覧してくれるよう、置いて来た。

母の病状について名医いわく、「尿酸値が上がっても、命には別状ないよ、痛いけど」。

86日(土)

4時半にひろ子から引き継ぐ。「来週になって、ペースメーカーを埋め込んだ傷が完全にふさがれば退院できるでしょう」とA先生が言ったそうだ。ひろ子には信じられないようだが、「いつも予防線を張って責任回避をしようとするのが医師の常なのだから、そういうのであれば、よほど自信があるのだろう」と私がいうと納得したようだ。

ひろ子は12時から5時まで居てくれ、途中から車で夫と娘も合流し、白りんどうを花瓶とともにいただいた。

今日の母は痛いことは一切言わず、平熱、血圧正常、血中酸素濃度96、心拍数70、体調はきわめて良好である。

「悪い夢から今朝、覚めた、今朝から頭はハッキリしている。今まで何回か入院しても頭が混乱したことなどなかったのに、今回はどうして正気を失ったんだろう」という。

心肺が停止したにもかかわらず「覚えが無いのは初めて」という

毎年、戸田の花火大会を自宅門前の荒川土手から眺めるのを母も楽しみにしていた。幸運にも今年はそれを病院の窓から、かぶりつきで見ることができた。7時頃から9時頃まで空いっぱいに広がる色彩と、腹に響く音が退院の話を祝福してくれているように思えた。

祝福の打ち上げ花火偶然に

8月7日(日)

3食とも完食。ひろ子、俊明君、さと子夫婦が来てくれる。昼12時から8時まで交代で付き添う。4時から30分くらいの間ひどく寒がり、意識が少し混濁し、じたばたして花瓶を割ってしまった。寝惚けたような状態なのだが、このような時に点滴の管を抜いてしまうのであろう。就寝時には軽く拘束されるようだが致し方ない。

88()

3割、夜完食。昼食に近い時間にレントゲンなどの痛い検査があるらしく、昼食はあまり食べない。その代わり夕食はこのところ完食する。

ひろ子がいる間にマー君が来てくれる。

半ズボン言葉少なにひたむきに

午後1時、〈しんあい〉の藤田さんに電話をする。退院できそうなこと、ベッドのこと、できる限りヘルパーさんをお願いしたいので介護ランクの見直しをして欲しいこと、入浴サービスもお願いしたいことなどを話す。

89日(火)

午後1時、A先生から電話がある。「薬を点滴から飲み薬に切り替えるので、今週末には退院できますが、何日にしますか」と。13日の土曜日に退院することに決める。

早速、藤田さんに電話をして段取りを決める。介護用ベッドは前日の12日に搬入すること、退院時の搬送を頼むこと、状況報告書を書いてもらうことなど。

12時から3時までさと子、5時まで私、8時まで妻とリレーする。

退院の日が決まったことをいうと、入れ歯のない、ゆがんだ顔をくしゃくしゃにして喜んだ。「13日の94歳の誕生日は退院と重なって疲れるだろうから、翌日の14日の日曜日に皆で集まって、お祝いをするからね」というと、「嬉しい!そうしてちょうだい」と返事をする。

DNA 書き損じたかくしゃくしゃに

810日(水)

食事は毎回完食となり、食後に薬を飲めるので、点滴は取り外された。

正午から夜8時まで、ひろ子、私、妻と付き添いをリレーする。

811日(木)

午前、精密検査のため、姉を帝京大学付属病院につれて行く。ひろ子にも応援を頼んで良かった。赤羽駅や病院総合受付など、人ごみの場所で、しがみ付かれてしまい、どうにもならない、人が多いと不安のようだ。

一歳の種痘の後の高熱で 脳細胞は破壊されたり

3時、さと子と交代。美咲ちゃんも来てくれていた。さと子に午前中の姉のことを話すと、「たぶん、18日に組織採取検査をすると思うけど、肺だから大変だわよ」という。

4時ごろ、A先生が病室に来てくれる。「炎症反応の数値が上がったので、あと1週間ほど、退院を伸ばしましょう」とのこと。尿道炎の疑いがあるようだ。入院前の血液検査のデータも見たいらしい。明日、持参することにする。

すぐに、〈しんあい〉に電話をして、ベッドと車椅子カーをキャンセルしてもらう。

812日(金)

河西外科に依頼した姉の入所診断書ができあがった。午前中、その他の書類も持って障害福祉課に相談に行く。重大な疾病が予想されるのに、このまま話しを進めて良いのかどうかという相談である。けっきょく、ショートステイを〈しらゆり〉と〈めだか〉の二本立てにし、本人の病状を見ながら、その間に県の長期入所施設と折衝することになった。

〈しらゆり〉を見学すること、姉の検査結果は分かり次第すぐ知らせることを確認する。

姉に〈めだか〉のお泊り練習(ショートステイ)のことをいうと「毎日、送迎バスでその前を通っている。泊まったお友達も良かったと言っているので、泊まってみたい」と答える。

母は抗生剤の点滴を再開。

血中酸素濃度が酸素吸入をしない状態で90%。ちょっと心配だ。

813()

母の退院後、できれば自室で安静にしてあげたいと思い、母と姉の部屋の大掃除をしたいので姉に言ってみる。

「お姉さんの病気もお母さんの病気も肺の病気なんだよ。肺に一番悪いのはチリやホコリなんだ。今日は涼しいから、お姉さんとお母さんの部屋を、大掃除してあげたいんだけど…」。しばらく、真横を向いて目を反らしていたが、トイレに逃げ込んでしまった。家族が部屋に入ることを何よりも嫌い、無理に入ると気が狂ったようになってしまう。

デイサービスに行っている間に簡単な掃除や空気の入れ替えは私がやっているのだが、足の踏み場もない埃まみれの「宝物」の山を何とかしないことには、また肺炎になってしまうだろう。

デイサービスとヘルパーさんをお願いする以前には、この「お宝」が廊下は勿論、部屋の半分までも占領していた。中味はゴミ置き場から拾ってきた古新聞紙などなのだが、家族が触れたり、移動したりしたら、1ヶ月以上、よく体力が続くと思うくらい荒れ狂った。

同室の母が最も被害を受けるのだが、6人産んだ子供(内2人死亡)の中で姉が一番かわいいと母は何遍もいう。

六人も子供を産んだその中で 姉が一番かわいいと母は

今日は母の94歳の誕生日である。もう10年以上も前からお花を贈り続けていただいている姪の朋子さんと貞子さんから、プリザーブドフラワーとバースデイカードが届けられた。早速、病室まで運んだのだが、体調が悪く、意識が朦朧としていて認識できない。

病院の栄養課からもバラの花とバースデイカードが届いていた。ちょうど、この時期、やはり肺炎で他の病院に入院したこともあるのだが、このような配慮を受けたのは初めてのことだ。

814日(日)

病院の栄養課にお礼状を渡す。

プリザーブドフラワーを、もう一度、持って行って見せたら、今日ははっきりと認識し、カードも読んだ。

気がつけば九十四歳菊香る

815日(月)

午前9時、姉のCT撮影のため、帝京大学病院に行く。月遅れのお盆中のせいか、交通も病院も空いていて1020分に終わる。ひろ子には18日には決断をしなければならない事があると思うので、また来てくれるように確約した。

姉が17日に〈しらゆり〉に見学に行くというので電話をして午前10時半に行くことにした。

午後1時、私の長女一家4人が来宅。今日は私の孫たちが一年に1泊しかできない貴重な日だ。母の見舞いにも行ってもらったが、体調が悪く、負担になるので長女だけにしか会わせることができなかった。

816()

午前中、孫たちと都市農業公園に行く。30分ほど経つと土砂降りの雨になってしまう。すぐ帰り、お家で遊ぶ。

ピアノ弾く子は秀才か天才か「ドドソソララソ、ファファミミレレド」

今日の母は昨日とうって変わって様子がよく、「どこも痛くないから、もう退院したい」という。だが、食は進まない。

ひろ子のメモによると、1時半からと2時半頃の2回、10分間ほど、起き上がっていたそうだ。

A先生からお話があり、炎症反応の数値が上がった原因は、やはり、尿の菌のせいなので抗生剤を4日間、打つとのこと。ペースメーカーのしおり、手帳、カードも手渡され、ペースメーカーの管理会社とも契約することにする。

817日(水)

午前中、姉を連れて、しらゆりの家に行く。まず、デイルーム、居室、職員室、お風呂、トイレなどの見学をする。その後、所長・ケアワーカー・看護師さんに面接をしていただく。本人も穏やかに明るく接し、その気になりつつあるようだ。

 せっかくに生まれてきてのことだもの 遊べ楽しめ命の限り

母も体調がよく、ベッドの支えを使わないで、自分でバランスをとって足をぶら下げて坐ることを何遍もする。A先生は「尿の菌も大分少なくなったし、2,3日中には退院の日も決まるでしょう」という。

818()

姉の主治医である帝京大学付属病院のB先生は40歳そこそこ、ちょび髭を生やしていて、なかなかダンディな人だ。

「CTを見ると影の輪郭がはっきりしているので、他から転移した可能性がありますね。ここで発生した場合は輪郭がもっと、もやもやっと、しているんですよ。胆嚢にかなり濃い影があります。胆石の可能性もあるんですが、まず、胆嚢から調べてみましょう」と、そのダンディ君がこともなげに、恐ろしいことをいう。組織採取検査は指示理解力がないので(前回、呼気を少しずつ吐くことができなかった)無理であろうとのこと。ペット(ブドウ糖の吸収量の違いで癌細胞を見分けるCTのようなもの)は装置があまりにも巨大なため、スペース不足で、ここの病院には無いとのこと。けっきょく、他の臓器の検査をしながら、経過観察をすることになる。今日のところは腫瘍マーカーのための採血をし、大腸癌検査のための検便セットを持ち帰ることのみだ。823日に胆嚢の超音波検査をし、91日に再診することになる。

蝉は鳴く告知されても解らずに

昼直前、障害福祉課に午前のことと昨日の〈しらゆり〉見学面接の件を電話で報告する。「池袋に1週間単位で入所できる施設が見つかり、折衝しているのですが」と言ってくれる。今日の姉の結果がオールクリアーだったなら、飛びつきたい話なのだが、B先生からは経過観察をしてとのことなので、今のところ心情的に、一週間はちょっと不安だ。とりあえず、金土のみ、〈しらゆり〉にお願いしたいという。

8時前、メダカから電話があり、ショートステイはデイサービスと同じ日の方が都合良いという。願ったりかなったりだ。年間40日の許容日数を使い切ってしまう可能性もあるので、池袋の方も使えるようにしておきたい。

819日(金)

午前、障害福祉課を訪ね、〈しらゆり〉の826,27日分の申込をする。〈いけぶくろ茜の里〉のパンフレットもいただく。近々、見学するつもりだ。

母の付き添いは昨日に続いて、正午から夜8時まで、妻、私、妻とリレーする。ひろ子は来院するのに1時間かかり、さと子に至っては2時間もかかる。ひろ子は姉のほうにも付き添うので、代われる日には代わってあげることにする。

吾が兄妹一丸となりて成長す 母の介護でまた一丸と

母の病状は数値的には良くなっているのだが、2日前から殆ど食べなくなってしまった。また、点滴に逆戻りしないか心配だ。

820日(土)

午前、市の基本健康診査の結果を聞きに河西外科に行く。姉も私もコレステロールの数値が大分良くなった。R先生は姉と母のことを気にかけて、姉については私の報告をカルテに書き込んでくれ、母については「入院を続けていた方が安心だろう」と言ってくれる。

母はこの2日間、飲まず食わずゆえ脱水症状の様相を呈し、呻き声を出して大分苦しんだ。意識が混濁してきたので、今日になってやっとブドウ糖の点滴をしてもらえるようになった。加えて、家に置いてあった河西外科処方の逆流性食道炎の薬、アルロイドG(膜を作って逆流してくる胃液から食道壁を守る液状の飲み薬)を部長先生の許可を得て与えるようにする。「胸が悪い、胸が落ち着かない」と言っていたが、これで少しでも楽になればと思う。

821日(日)

妻は昨日に続いて、午前中から午後5時まで絵の展覧会に詰める。創作活動をしている人間は優先順位を替えられないことがなんとも辛い。

100号の妻描きたる円月橋 月より光る金賞のメダル

私も、ジャズフェスティバルが迫っている。それまでに母が快方に向かえば良いのだが。

日々生きるMy SpiritJazzになり Every Mindを潤せばよい

母は今日も1,2割ほどしか食べない。点滴は続いている。

822日(月)

姉はデイサービスの夏休みが終り、12日ぶりに出かけた。これからはメダカのスタッフの皆さんにもいろいろと無理を聞いていただくことになると思うので、お願いの手紙と、これまでの経過を示した文書とを持たせた。

母は尿の菌を退治する薬の副作用で食欲がなかったらしい、もう、その処置が終わるようなので、また食べられるようになれば良いのだが。

823日(火)

午前、姉の胆嚢の超音波検査ため帝京大学病院に行く。検査だけで話は何もない。

その足で、〈いけぶくろ茜の里〉に見学面接に行く。見学面接はもう慣れているので、あらかじめ、療育手帳、河西外科の診察券、住民基本検診の結果のコピー、簡単な履歴を書いたものなどを持参する。Tさんに応対をしていただく。今年の4月にオープンしたばかりなのでピカピカしていて気持ちがいい。敷地も広く、5階建てで、ちょっとしたマンション風の建物だ。最後に皆と仲良くやっていけるかどうかとの質問が姉にある。ケンカはするだろうが、次の日には仲良くなれると姉は答えた。

一気に3ヶ月も滞在できるとTさんはいう。考えてみれば県の施設はかなり遠方にある。茜の里は帝京大学病院にも近いし、ひろ子の住まいの方角だ。良い話なので家に帰ってから姉に勧めてみた。あまり良い反応はしない。

手荷物は 他人 ( ひと ) に代わって貰えども  他人 ( ひと ) に代われぬ心の荷物

824日(水)

午前、障害福祉課に昨日のことを報告に行く。姉が長期の滞在(姉にとっては1週間でも長期である)をする決心がつかないので、2,3日、考えさせてくれと言っていることを伝える。

母は3割方食べるようになりつつある。10分間ほど起き上がりもしたが、体力はかなり弱っている。

825日(木)

姉にメダカのショートステイ年間登録料15,000円を持たせる。ステイ費は18,600円だから長期間は無理だ。

母についてA先生からお話がある。「炎症反応は2まで下がり、数値的には問題ないのですが、食欲が無くなってしまいました。点滴では1日、200キロカロリーしか取れないので、鼻から胃に管を通して食物を流すと良いのですが…」とのこと。お願いすることにする。

826日(金)

姉にとって始めてのショートステイの日だ。帽子、上着、上履き、着替えの下着2着づつ、タオル、バスタオル、スカート、靴下など持ち物の全てに名前を書いて持たせる。午後1時半、〈しらゆり〉に到着。前回お会いした看護師のSさんに手続きをしていただく。若い見習いの人たちに得意になってメダカのことを話している姉を置いて、2時に母の病院に向う。

何をして何を楽しむ 蝸牛 ( かたつむり )

母は毎食、2,3口しか食べない。しきりに「胸が悪い」と言う。それなのに、ひろ子には4回も「起してちょうだい」と言ったらしい。妻には「膝が痛い」と言ったという。また痛風が出てきたのかも知れない。

827日(土)

午前10時、〈しらゆり〉に姉を迎えに行く。「どうだった」と聞くと「散歩をしたり、カラオケをしたり、猫がいたりして楽しかった」と答える。スタッフの話によると夜は熟睡できなかったらしい。きめ細かい報告書をいただいた。

猫じゃらしじゃらしじゃらされ過ぎてゆく

12時半、A先生から電話があり「鼻からの流動食は月曜日からにしたいのですが」とのことだ。「お願いします」と返事をする。だが、妻は「夕食は6割ほど食べた」という。

828日(日)

今日で入院以来1ヶ月が過ぎた。振り返れば「もうだめか、もうだめか」と何遍も思い、退院できるかと2回も思ったりしながら、良くぞここまで来られたものだ。私の「11秒でも長く生きていて欲しい」という願いが、母の「安らかに逝きたい」という希望に沿えなくて、痛い思いや苦しい思いをさせていることに対し、申し訳ない気持ちでいっぱいである。しかし、これも成り行きというか、運命というか、1ヶ月前のあのとき、何もしないでいることが私にはできなかった。

私にとって、この1ヶ月間ほど、時間の重さを感じたことは、今までに無い。

「時間とは人の命のことなんだ、どう使うかは自分自身で」

母の様子は良いが、1日中、殆ど食べない。 ( しか ) るに、起き上がったり、手を動かしたり運動することに懸命である。

いらだたずおこたらずなり水車

829日(月)

流動食を通すために鼻から入れた管を流動食が一適も入らないうちに自分で引き抜いてしまった。夕食時、その濃縮栄養液を妻がスプーンに乗せて与えたが3口しか取らない。

830()

A先生からカンファレンス室で今後の方針について話がある。

「数値的には殆ど問題はありません。不摂食の対処法としては ( ) ( ろう ) (お腹に穴をあけて管をつけ、直接胃に食物を入れる)をする方法があります。または退院してストレスが無くなれば食欲が出る可能性もあります」

そう言われても「胸が悪い、苦しい、吐き気がする」と言っているのに退院させるわけにはいかないだろう。

どうするか、あさってまでに返事をすることにする。

インターネットで調べてみると胃漏というのはそんなに大変なことではないらしい。

意味知らぬ医学用語を調べるに インターネットはありがたきかな

831日(水)

午前、〈しんあい〉に行く。1ヶ月間もお借りしたボンマット(蒟蒻状クッション)をお返しする。所長に胃漏について尋ねると「そういう方は多いです。ご自宅でも対処できますし、その方法をお教えもいたします」と言ってくれる。点滴も酸素吸入も自宅でできるそうだ。ただ、人工呼吸器だけは扱えないらしい。

母はしきりに「腕を持ち上げて」という。横向きで寝ているので、上側の腕を高くさし上げると胸が広がって「胸が悪い」のが良くなるような気がするらしい。夕食は3口のみ。点滴は続いている。

むかつきを押さえるために手を上げる 他の方法の無きぞ哀しき

91日(木)

午前、姉の再診のため帝京大学病院に行く。B先生からお話がある。

「血液検査の腫瘍マーカーはマイナスです。検便での大腸癌検査もマイナスです。超音波検査の結果は胆嚢に石がこびり付いて陶器のようになっているんですが、問題ありません。肝臓が脂肪肝になっています。このあと、本来ならば検査入院をしていただいて、胃カメラや気管支鏡を入れてみたいんですが、いずれも部分麻酔なので患者さんの協力がないと無理なんです。ペットも考えられますが当病院には無いし、マーカーがマイナスなんで、あまり意味はありません。あとは、2,3ヶ月様子を見て、またCTを撮って見るというところですね」

けっきょく、118日にCTを撮ることと、1119日に再診察をすることに決まる。勿論、途中で体調に異変があれば、ただちに来院することにする。

胆嚢は陶器の如く肝臓は脂肪に満ちて肺に影あり

自宅で昼食を取り、すぐ戸田中央病院に向かう。1250分に着く。母は私が着くと間もなく2回吐いた。内容物を見ると、お粥とみそ汁、合わせて小匙2杯分くらいである。「むかむかする、苦しい!」と何回もいう。

3時にカンファレンス室でA先生と面談をする。

「今の胃の状態だと胃漏よりも中心静脈栄養(心臓の近くの太い静脈まで管を入れて、ブドウ糖を点滴すると、1日、800キロカロリーくらい摂取できる)の方が良い処置だと思います」と先生はいう。病状が一日二日でどんどん変わって行く。判断が追いつかない。

承諾書を書き中心静脈栄養の治療をお願いする。

この病院は急性疾患を治療する病院なので病状が一定化すると退院を促すようだ。1ヶ月が目安のようで、先生は「私も、いろいろ言われているんですが、保留にしておきますから」と言ってくれる。

「価値ある生ならば肯定したいし、そうでなければ安らかに終わらせてあげたい」と私が言うと先生は「価値のある無しは医者にとっては関係ありません、価値は誰が決めるのですか?」と言われる。グウの音もでない。窓から、外を見る。

生と死の価値判断やいわし雲

〈しんあい〉の藤田看護師から電話があり、「胃漏の処置をするためには役所の手続きが必要なんですが」とのこと。病状の変化を説明し、お気遣いを感謝する。

92日(金)

午前、姉を〈しらゆり〉に連れて行く。例によって持ち物の点検記録に立会う。前回の印象が良かったせいか姉はルンルン気分だ。

母死亡時には事後書類提出の緊急措置で23日、お願いする旨を確認する。この件は母本人からもきつく言われているのだ。「お姉さんは死体を見ると、気がおかしくなってしまうから私の遺体は見せないように」と。また、姉も「人が大勢来るのは苦手だから」と言って納得している。

吾を見るしゃれこうべ吾がしゃれこうべうつつ世のごと幻のごと

事情を知らない人は2,3日なら、どちらかの妹の家に預ければ良いと思うであろうが、母は「居座られたら必ず家庭を破壊されるから」と言って頑強に反対する。私もそう思う。

私の長女は他家に嫁ぐのを反対した私に「こんな家に入ってくれる男の人が、いるわけがないでしょう」と言った。全く、その通りだ。次女もその伝で他家に嫁いだ。わが家は私の代でおしまいである。

娘らは他家に嫁ぎて吾が家系断絶すなり間尺に合わず

午後、母の首を見ると、右側に後ろ向きにカテーテルが付いている。いつも右を下にして寝ているから、これならば引っ張れないので、より安全であろう。巧い具合に付けたものだ。

母はいう。

「今日の午前中、先生がすごい治療をしてくれたので、ちょっと疲れたから、これから寝ます」

回診の医師の手さばきテキパキと どこに吹く風ゆるりと母は

あい変らず、吐き気は続いているが、気のせいか昨日よりは元気があるようだ。起き上がりの運動も何回かする。カテーテルを心臓の近くまで入れたままだというのに。

93日(土)

午前、〈しらゆり〉に姉を迎えに行く。今回は良く眠れたようだ。報告書にはトイレに行った時間から、夜、1,2時間ごとに見回った様子まで細かく書かれており、スタッフの皆様の心遣いに感謝するばかりだ。ピアノがあったので、お礼の意味も込めて「きらきら星ジャズ変奏曲」を演奏する。

初秋にはソフトなジャズとモーツァルト

午後、母の様子は昨日より少し良いようだ。例によって、起き上がって座ることを繰り返す。疲れないのかと心配してしまう。

中心静脈栄養にすると食事は出ないはずだったのだが、出ることになる。夕食には大好きな南瓜の煮付けが出たので喜んで食べた。

家族の居ない間は安全のために指の無い手袋をされてしまうのがかわいそうだ。

94日(日)

昨日より様子が悪い。「むかむかする、気持ちが悪い、吐き気がする」と言いながら呻き声を上げる。妻が「お腹を撫でてあげたいけど、手が入らないから背中を撫でるわね。お腹まで届く?」と聞くと、「うん、届いている」と答えたという。

母の入浴介助をするとき、一番難しいのは腹部を洗うことだ。腰が曲がり過ぎ、腹部は 蝶番 ( ちょうつがい ) が貼り付いたようになっているので手が入らない。私はこれまで「母は90度以上、腰が曲がっている」と言ってきた。それを聞いた人はせいぜい95度か100度くらいだと思うだろうが、正確にいうならば180度曲がっているのである。(夫の暴力でなってしまった)

家の中では杖を突かないで歩くので上体はまっ逆さまになってしまう。逆流性食道炎(胃液が逆流して食道を侵す) ( むべ ) なるかな。

「背をなでてくれれば、届くわ!お腹まで」二つに折れし母は言うなり

95日(月)

中心静脈栄養をするようになってから、夕方5時ごろに血糖値を計ってくれるようになる。今日の血糖値は125、夕食は3割ほど食べる。

月曜日はガラス工芸教室(サンドブラストによる彫刻とガスバーナーによるトンボ玉作りを妻が自宅で教えている)の休みの日なので、妻が5時間も母を看てくれる。

義母を看るその心根のひた向きさ 薬師如来か観音様か

96日(火)

メダカから電話がある。お泊りの値段の詳細のことから話し始めたが、実は連絡帳に書き辛い姉の起した金銭問題を報告したかったようだ。

母の血糖値は150。胸のムカムカや吐き気は少し収まったと言うが呻き声を上げる。「どうしたの?」と聞くと「せつない!」という。「外の景色が見たいから窓際のベッドに移りたい」ともいう。ストレス開放のために良いかもしれない。看護師さんに言ってみる。

夕食は6割ほど食べた。

97()

姉は朝9時半にメダカからの迎えの車に乗って門を出る。明日の夕方5時半まで帰って来ない。始めて、メダカのお泊りだというのに、着替えや洗面道具について尋ねても、ふてくされて返事もしない。「行ってらっしゃい!」と声をかけても振り向きもしないで出かけた。原因不明で突然、機嫌が悪くなるのだ。

かなかなや思いめぐらし行き暮れて

母の方は、ひろ子を休ませるために私が正午から5時まで看る。昼は小匙2,3杯しか食べないが、夜は5割食べる。5時の血糖値は152。徐々に、かすかに様子が良くなってきている。

98日(木)

午前、台風一過(台風14号、24人の死者がでる。またアメリカでもハリケーン、カトリーナが大災害をもたらした)の晴天を利用して母と姉の部屋の大掃除をする。「宝物」の置いてある場所は文字通り足の踏み場も無いので「宝物」の上に登り、踏みつけて天井や鴨居にへばり付いた塵を落とす。「宝物」の塵を個別に掃除することができればもっと良いのだが、いじると姉が気が狂ったようになってしまうので仕方なく諦める。

考えてみれば、この「宝物」を荷造りするために、姉はビニールの紐が裂けて割れ、千切れて空中に浮遊するような状態の中で20年以上も、その「作業」に明け暮れている。もしかしたら、そのことが肺にできた影の原因になっているかも知れない。

食抜きてゴミの宝と秋惜しむ

夕方、始めてメダカミックスに泊まった姉はご機嫌で帰ってきた。思い切って「大掃除をしたからね!」と言うと「あぁ、そう!」とだけ返事をする。ほっとした。

母の8月分の入院費、95,004円を病院に支払う。

今日は窓際のベッドの人が退院するので、もしかしたらその跡に移れるかも知れなかったのだが、あっという間に別の人が入院してしまい希望どおりには行かなかった。

様子は昨日と同じようだ。「御飯を食べないと、お家に帰れないよ」というと「がんばります」と答える。

99()

金曜日は姉が社協(川口市社会福祉協議会中央班ヘルパー室)のIさんにお世話になる日だ。午後1時半から2時半まで散歩を中心にしたストレス開放の介助を受けている。20032月から火曜日と金曜日に、このサービスを受けるようになってから、目に見えて症状が良くなった。やはり、家族だけで何とかしようとしても無理だったのだ。次の年の4月からは〈めだかすとりーむ〉でデイサービスを受けるようになり、なお一層ほがらかになった。しかし、こちらは団体生活なので、ときには軋轢もある。その「軋轢」や家庭での「ストレス」を解消するためにヘルパーさんの介助は欠かせない。

病葉 ( わくらば ) や心静かに生きたもれ

Iさんのお陰でご機嫌な姉に〈いけぶくろ茜の里〉の件を持ち出す。今までは「遠くて嫌だ」とか「1週間は長すぎて」とか言っていたのだが、やっとその気になったようだ。「月曜日にメダカに行ったとき、1週間休めるように話をつけてくる」と鼻息も荒くいう。姉に行動してもらうにはどうしても、「話をつける」ことが必要である。

午後、母はしみじみという。

「ボクやママさんやひろ子さんやさと子さん、みんなのお世話になって、もう一回生きてみたい!」

一度「死んだ」ことは知らないはずなのだが?

あれほど人に迷惑をかけることを嫌っていた母が「みんなの世話になりたい」という。この一言を聞いて私が決断し、実行したことは間違っていないと確信した。胸に迫る。

迷いつつ決断しつつまた迷う 人の道には満点はなし

910日(土)

毎食、5割ほど食べるようになる。3時にビスケットを食べる。

911日(日)

毎食、6割ほど食べるようになる。3時に紅葉饅頭を食べる。

日曜日ごとに、さと子と娘が看てくれる。娘は大学が夏休みだからといって、木曜日にさと子と一緒に来てくれることもある。

つくつくし孫はたびたび励ましに

912日(月)

やっと姉がその気になったので障害福祉課に行き、〈いけぶくろ茜の里〉の利用手続きをする。1ヶ月の利用日数は〈めだかすとりーむ〉利用との限度いっぱいの14日となる。

母は毎食7割ほど食べるようになる。

913()

毎食8割ほど食べるようになる。妻は「食べ過ぎて吐きはしないか、冷や冷やする」という。3時にかっぱえびせんを食べる。

生ましめし宇宙は海と大地とを 海は命を大地は母を

914日(水)

夕方5時半、カンファレンス室でA先生と面談する。

「今現在、ご存知のように中心静脈栄養(高カロリー点滴)で1700キロカロリーとミネラル分が取られています。今の活動状況だとそれで充分な熱量です。国保で、この処置をすると食事は出せないのですが、お母さんの場合は食事を取る量が回復の重要な目安になりますので、無視して病院食をお出ししています。4割から8割食べていられるようで、平均6割として600キロカロリーくらいは食事で取れているでしょう。血糖値が上がり過ぎるといけないので点滴の中にインシュリンが入っています。(血糖値は毎夕5時にチェックしている)

炎症反応が2あるんですが、おそらく尿の菌が原因でしょう。貧血はあい変らずありますが、輸血するほどではありません。血圧、血中酸素濃度、肝機能、腎機能、コレステロール、中性脂肪、などは正常で心臓とペースメーカーも順調です」といつもの優しい声で言ってくれる。

「本当にありがとうございます。先生の適切な判断と素晴らしい処置のお陰で、やっとここまで来ることができました。でも、いろいろと大変だったでしょう」

「正直に言って難しかったです。お母さんの場合は、あお向けになれなかったですから。そのことは私にとって始めての経験でしたし、90歳以上の方も初めてです。少し前まではペースメーカー挿入の上限年齢は80歳までだったんですよ」

「その後の数々の問題も迅速に、しかも的確な判断で解決していただいて、たいへん感謝しています」

「いいえ…。…ところで、考えられる限りの処置はしましたし、お年のことを考えると、この辺で安定したことになるでしょう。そこで今後のことなのですが、ご自宅で介護する方法と長期入院施設で看てもらう方法とが考えられます。自宅介護を成功させるためには主治医が往診してどこまで的確な処置をしてくれるかということと、レベルの高い看護センターに看てもらうこと、それと何よりもご家族の徹底した介護が必要となります。例えば、温度管理を怠っただけでも、坂道を転がるように病状が悪くなるでしょうし、一瞬の気のゆるみで全てが終わってしまうこともあります」

「うーん、難しい選択ですね。長く安全に生きてもらうには老人病院の方が安心なんでしょうけど、けっきょく私は長時間付き添うことになるだろうし、何よりも本人のストレスが問題ですね、早く家に帰りたがっていますから。返事はいつまでにすればいいですか」

1週間後でいかがでしょうか。それでも退院するのは入院してから2ヶ月後ということになります。前にも少し言いましたが、1ヶ月くらいで上からいろいろと言われるんですよ。いや、けっして追い出すようなことはしませんが…」

「解ります。軽微な人が居座っていては重症な人が困りますからね。…では親戚兄弟とよく相談して1週間後までに、ご返事することにします」

915日(木)

昨日 ( きのう ) 一昨日 ( おととい ) の最高気温は33度、今日は一転して26度、週間天気予報によると、もう暑い日はないという。今日は昨日の暑さが嘘のように涼しく、しのぎ易い。けれど、「これからは、もう寒くなる一方なんだ」と思うと、なんとなく寂しい気持ちになる。

病む母の ( あばら ) を撫でし秋の風 

〈しんあい〉の藤田看護師から病状確認の電話がある。A先生に言われたことをそのまま伝える。「往診の先生に要求が受け入れられなければ替えることも考えられます」と言ってくれる。

916日(金)

姉のショートステイ先、茜の里が17日以降から使えることになっているので電話をする。9月いっぱいは空いてないという。10月分も20日以降になって施設長が出勤して来ないとわからないそうだ。

母は入院以来、初めて入浴をさせていただく。それだけ体調が良くなったということだ。戻ってすぐに水をゴクッ、ゴックンと飲む。

今まで、母の水分補給にはスポーツドリンクを使ってきた。水と半々にすると、ちょうど口に合うようだ。したがって、枕もとには病院から出るお茶と共に、スポーツドリンクとミネラルウォーターのボトルがいつでも置いてある。

生ぬるきポカリスエット一気飲み 冷えたるものを入院の母に

今日から酸素吸入を止める。

917()

午後1時半、A先生から「食事の量が大分安定してきたので、来週には中心静脈栄養を止めて、普通の点滴に戻しましょう」とのお話がある。中心静脈栄養は長く続けると細菌感染の心配があるそうだ。

918日(日)

かつて、母は具合の悪い人がいると、すぐに体を撫でてあげる習性があった。いわんや、撫でることに関しては一家言を持っている。曰く「もっとゆっくり」、曰く「もっと力を抜いて」、曰く「同じところばかりでなく」、曰く「もっと優しく」などなど。私も子供のころ、そのように撫でてもらった。

愛撫され添い寝されたる幼き日 思い起こしつ母にするなり

919日(月)

週間天気予報では涼しくなるはずであったのだが、また暑さが、ぶり返してきた。

母を撫でし手のひらの汗味見する

920日(火)

残暑は居座り、もはや ( しゅう ) ( しょ ) である。戸田公園や子供の国の森では、まだ蝉が鳴いている。

残る蝉生かされ生きて九十四

921日(水)

一週間前の約束で、A先生と面談をする。先生は目でいう。「転院か自宅介護か、どちらにしますか」と。

私は、口で、はっきり答える。

「自宅で介護しますので、よろしくお願いします」

「解りました。それで、後悔しませんね」

「はい、しません!」

「では、中心静脈栄養を末梢の点滴に変えることにしましょう」

「ありがとうございます」

けっきょく、退院日は927日の予定になる。入院から、ちょうど2ヶ月だ。

一畳のベッドで暮らす母は言う「荒川土手から見晴らしたい!」と

〈しんあい〉の藤田さんに電話をしてベッドの手配をしてもらう。これで3度目だ。

922日(木)

20日ぶりに、首の静脈から心臓の近くまで入っていたカテーテルが引き抜かれる。この中心静脈栄養のお陰で、母の体力は随分回復した。顔もふっくらとし、顔色もだいぶ良くなった。あとは、できるだけ食べることだ。念のために、右手に点滴針がセットされる。

姉のショートステイの日を決めるべく茜の里に電話をする。1020日以降でなければ空いていないという。1ヶ月も先の話だ。一ヶ月も先のことは読みきれない。

次々と難問題が迫り来て あちらを立てればこちらが立たず

923日(金)

〈しんあい〉に電話をし、所長と話をする。病状経過記録を届けたかったのだが、今日は祭日だったので持ち越すことになる。

居間を掃除する。この家を建ててから27年になるが、今日ほど徹底的に掃除したのは初めてだ。

924日(土)

正午前から6時半まで一人で看る。

3モーター付きの電動介護ベッドが搬入される。できる限りの努力をしたのだが、母の部屋にベッドを置いてあげることができなかった。どうしても、姉のステイを巧く調整することができなかったのだ。やむを得ず、家庭内引き離し作戦で、ベッドは居間に設置した。重さが84.5sもあるので、とても素人には動かせない。

925日(日)

母はこのところ、毎食7,8割食べている。

着々と退院準備整いて 緊張しつも喜び溢るる

926日(月)

〈しんあい〉に行き、経過記録を置いてきた。その後、藤田さんから電話があり、介護度の変更、ヘルパーさんの回数と内容、当面は夕方藤田さんに来ていただくことなどの打ち合わせする。

障害福祉課に行く。1ヶ月も茜の里を待つならば、他の空いている所を探したほうが良いということになる。姉のステイ先探しはまだまだ続きそうだ。

927日(火)

戸田中央総合病院に行く最後の日だ。私と妻はこの2ヶ月間、1日も休まなかった。妹たちとその家族も含めて、正午前から夜の8時まで毎日付き添った。特に妻は1日に2時間半づつ2回、5時間も看てくれた日が何日もある。

お座りや寝返りを5分ごとにしたり、「食べた、食べない」と言っては一喜一憂したり、病状が次々と変わり、その対策の決断を求められたり、退院が2度も撤回されたり、もうだめかと思ったことも幾度かあり、振り返れば大変な日々の連続であった。しかしながら、いま現在、考えられる限り最高の状態で退院することができ、こんなに嬉しいことは他に無い。A先生を始め、部長先生、数多い看護師の方々、薬剤師、事務方、栄養科の皆様、清掃の皆様方には心から感謝したい気持ちで胸がいっぱいだ。

午前10時に妻と2人で病院に行く。荷物の整理、母の着替え、入院費の精算、河西外科への診療状況提供書の記入をしてもらうこと、〈しんあい〉への継続看護サマリーの記入をしてもらうことなどを済ませる。同室の患者さんやナース=ステーションに居た看護師さんや先生方にご挨拶をして正午前に病院を出る。

1215分に自宅に到着する。ベッドに落ち着いた母は「あぁ、よかった。うれしい!」と表情豊かにいう。そう、この一言が聞きたくて今まで努力してきたのだ。

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