母の思い出ばなし
歴史年表で調べてみると、母が生まれた1911年(明治44年)の8月は第二次桂太郎内閣が倒れて第二次西園寺公望内閣が成立し、山形有朋が枢密院議長でした。また、ヨーロッパではタイタニック号が進水式を挙げ(翌年氷山と衝突して沈没)、ルーブル美術館からはモナリザの絵が盗まれ(注@)、アムンゼンが南極を探検し、中国では辛亥革命が起って中華民国が誕生し、また、日本では幸徳秋水が刑死し、特高警察が置かれた年で、日露戦争の戦後6年目でもありました。
母は3歳の時に子守り 姉 やにおんぶをされて、牛堀町商店街(現潮来市)にちょうちん行列を見に行ったのが最初の記憶だと言っております。(第1次世界大戦参戦祝賀か)
5歳の時に初めて電灯がともり、夕方になるとお 祖父 さん〔前島家11代 隼 四 朗 (父、久五郎、母、金谷氏の娘)〕が「ふうこ(ふみの愛称)まんど(万燈)がついたよ!」と言いながら、ままごと遊びをしている母を呼びに来てくれたそうです。
この隼四朗お祖父さんは長兄の徳之介(注A)が幕末の水戸天狗党の乱で亡くなってしまい、次男三男は既に他家の婿になっていたので、四男ながら家督を相続した方です。そして、 高階 家に嫁いだが夫を亡くし、出戻ってきた徳之介の遺児〈わか〉のために敷地内に 新 屋 と呼ばれる別邸を建てて住まわせ、面倒をみました。そのわかさんは風邪が 流行 って、ほとんどの家人が臥せっていた75歳の冬、使用人の〈とらあんに〉と25歳の母(ふみ)に看取られて逝きました。わかさんは気位が高かった上、屋敷内から一歩も出ない人だったので買い物や用足しなど、日常のすべてにわたって人のよい〈とらあんに〉が献身的に尽くしていたのだそうです。
清 水 屋 (注B)や 河岸 の 家 (注C)ができたのも、この隼四朗の時代でした。河岸の家のせきおばあさんには「女はどんな家に嫁ぐか分からないから何でも習っておいたほうがいいですよ」と言われたそうです。
せきさんの嫁いだ家ではお正月に歌会始めがあったのですが、和歌が作れないので台所にいると、お姑さんに「 上女中 も 下女中 もいるのだから、そんな所にいないで歌会に出なさい」と言われたそうです。
このような話を聞いていると私には幕末とか明治維新が、すぐそこでの出来事のように思えてなりません。
その他にも、関東大震災の夜には東京の方角の空が真っ赤になっていたこと(1924年)、飛行船のツェッペリン伯号を阿見原(霞ヶ浦飛行場)に見に行ったこと(1929年)、建設中で、まだ原っぱのような明治神宮へ行った時のことなどを良く聞かされます。
そして、前島家の屋敷の 内外 には千家十職のように、 万工舎 (農機具販売修理)、 紺屋 、印判屋、大工、桶屋(注D)などがあり、専属の人力車夫も住んで居たそうです。
注@モナリザ盗難事件
実は天才詐欺師マルケスが手下にモナリザの絵を隠させ、その間に世界中の 疾 しい富豪たちに6点もの贋作を売りつけ、現在の金額にして40億円を騙し取った。
注A前島徳之介
藩主徳川斉昭が設立した16の地方藩校の1つ、潮来 郷校 の 羽生 宗十郎(注E)や高塚 兵七 たちと共に水戸天狗党に参加した。
最後は彦根藩あずかりとなり、越前、敦賀のニシン倉に幽閉され、 元治 2年(1865年) 2月4日、武田耕雲斎、藤田小四郎ら責任者24人のうちの一人として打ち首になった。
北辰一刀流千葉周作直系の千葉定吉の高弟。周作から受け継いだ金屏風を頂いたが火事で焼失。後に叙勲、従五位。福井県敦賀市松原神社にある1番目の墓誌に名前が刻んである。享年29歳。
辞世―「浮雲も霞も晴れぬ浮世をば みすてて急ぐ死出の 山路 」〔みすてて=見捨てて=身捨てて=実捨てて(一粒の 籾 はそのままでは一粒の米にしかならないが、実を捨てて種になって死ねば150から180粒の米になる。聖書ヨハネ伝12章2節、死なずばただ一粒にてあらん、死なば万粒を結ぶべし、の「一粒の麦」と同じ考え)〕
斬首刑になった者の合計は353人、幕末最大の汚点、大虐殺であった。ちなみに安政の大獄の刑死者は吉田松陰、橋本左内を含めて計8人である。
注B清水屋
隼四朗の先妻の 出所 である 清水 の大崎家(行方郡の惣庄屋。ちなみに鹿島郡の惣庄屋は市村の本家筋にあたる秋山の市村家)が始めた料亭旅館。屋号は出身地名を読みかえて 清水 屋とした。布団が足りないときには前島家のものを貸したそうである。
注C 河岸 の 家
新家の隣。徳之介(天狗党)の妹〈せき〉の嫁ぎ先である土浦 真 鍋 宿 (水戸街道)の酒井家が天狗党の田中 愿蔵 派に焼き打ちされ、一家5人で避難してきて住みついた。隼四朗が屋敷と田地田畑を分与した。幕末の水戸街道は天狗党、諸生党、幕府軍、にせ天狗(強盗)などが交錯し大混乱だった。
注D桶屋
桶屋からは高塚兵七が天狗党に参加し、生還した。
注E羽生宗十郎
天狗党に参加し生還。審次(ふみの夫)の姉〈あい〉が嫁いだ玉造町の羽生家〔天狗組(後の天狗党)の仲間3人を殺して追い出され、新選組(注F)に入って逆に近藤勇派の土方歳三に殺された芹澤鴨の生家の近所〕の流れをくむ麻生町羽生家の分家8代目当主。 先祖は数々の慈善事業(自費で海老沢,紅葉間の勘十郎堀の再掘削〈羽生堀〉、近隣2818人の天然痘患者を救済など)を行った豪商や医者であったが、この人が 身上 をつぶした。前島浩氏(前島家15代)の話に拠ると渡辺美智男代議士や逸見政孝アナウンサーの胃癌を手術した東京女子医大の羽生教授はこの人の子孫らしい。
注F新選組
新選組は、よく新撰組と書かれるが、「撰」は著作物の意味なので意味を成さない。生き残り隊士の永倉新八が小樽新聞に新撰組と書いて発表したことが原因らしいが、使われていた印鑑には新選組と彫られ、大正時代まで残っていた表札にも新選組と書かれていたので、NHKを始め、新選組と正す方向にある。
なお、新選組の池田屋事件(6月5日)と天狗党の田中愿蔵焼き打ち事件(6月21日)は1864年・ 元 治 元年同月の出来事である。
一粒の籾と成りにし徳之介 おかげさまにて豊作続き
実と成りて首落されし先祖かな
安正
女四代