生と死の法則
死ぬことは、ごく自然なことで、生まれることと同じこと。だから、生まれるときと同じように、むしろ、祝福されること、と考えることもできます。
どちらも、ある種のトンネルをくぐることに似ているのかもしれません。ただ、生まれるときは産道という確固としたものが確認できるのに対し、死ぬときにはそのトンネルが眼に見えないので、誰もが不安になるのでしょう。人の一生はその見えないトンネルを探し求め続ける旅なのかもしれません。
NANCY Wood著 MANY WINTERSはそのトンネルを探し当てたらしいのです。
ネイティブアメリカンのタオス=プエブロの人々は生と死を‘full circle,の一つとして捉えました。それは抗しがたい大自然と一体となり、なすがまま、そのままを受け入れることです。屈服するわけではなく、あらゆるものと共存して営々と暮らしていくことです。
それらの生活の知恵が結晶化したものが下記のものなのでしょう。
大地だけが行きつづける。
自分の人生がわからなくなったり
自分がなぜ人に聞き入れられないのか、わからなくなったとき
わたしが話しかけるのはいつも大地だ。
すると大地は答えてくれる、
かつて私の先祖たちが
悲しみの涙で太陽が見えなくなったとき
彼らに歌ってやったのと同じ歌で。
大地は歌う、歓喜の歌を。
大地は歌う称賛の歌を。
大地は身を起して、わたしを
春が冬に始まり、死が誕生によって始ることを
私がうっかり忘れるたびに。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。
さあ、これから、死ぬことについて君に語りましょう。とても美しい話です。聞いて悲しがってはいけません。
今にも秋が来ようというとき、わたしは山へ行く道を歩いていました。太陽は明るく輝いて、木の葉を豪華な色に染めていました。川の流れは、岩の上でゆるやかな踊りを踊り、「別れの歌」を歌っていました。鳥たちもまた、季節の終りが近づいたことをわたしに告げていました。
けれどどちらを向いても、悲しみというものはありません。というのは、すべてはそのとき、そうあるべき姿、そしてそうあるべきだった姿、また永久にそうあるべきだろうだった姿を、とっていたからです。ねえ、そうでしょう、自然は何ものとも戦おうとはしません。死がやって来ると、喜びがあるのです。年老いた者の死とともに、生の新しい円環が始まります。だからすべてのレベルでの祝祭があるわけです。
わたしは道を進んでいきながら、準備がどっさり行われているのを目にしました。「最後の踊り」の準備の方も、相当なものでした。
キンイロアスペンの木の幹に、死ぬために来ていた2匹の蝶がとまっていました。羽根をゆっくり、開いたり閉じたりしていました。息をするのがやっとだったのです。太陽が彼らを暖めると、蝶は互いに踊りはじめました。「最後の踊り」でした。流れのゆっくりとした音楽、そして風の優しい声は、それにつれて死ぬべき美しい調べを、彼らに与えてくれたのです。蝶々は怖がってなんかいませんでした。夜が来て、太陽が地平に沈むまで、彼らは踊っていました。それから地上に落ちて、地の肥やしとなりました。
春が再び巡ってくると、新しい緑のアスペンの幹に、2匹の新しい蝶がとまっているのに、わたしは気がつきました。彼らは一緒に踊っていました。それは「求愛の踊り」だったのです。流れは、速く、汚れなく、再び新鮮でした。流れが蝶々のために作った歌は、「新生の歌」という歌でした。
長い間、わたしは君とともに生きてきた。
そして今、わたしたちは別々に行かなければならない、
一緒になるために。
恐らくわたしは風になって
君の静かな水面を曇らせるだろう、
君が自分の顔を、あまりしげしげと見ないように。
恐らくわたしは星になって
君の危なっかしい翼を導いてあげるだろう、
夜でも方角がわかるように。
恐らくわたしは火になって
君の思考をえり分けてあげるだろう、
君が諦めることのないように。
恐らくわたしは雨になって
大地の蓋をあけるだろう、
君の種子が落ちてゆけるように。
恐らくわたしは雪になって
君の花弁を眠らせるだろう、
春になって、花開くことができるように。
恐らくわたしは小川となって
岩の上で歌を奏でるだろう、
君独りにさせないために。
恐らくわたしは新しい山になるだろう、
君にいつまでも帰る家があるように。
(金関寿夫訳)
これらの詩文は冒頭の‘A THOUSAND WINDS, と同じ精神の持ちかたで書かれ、all understandingの言葉として、心の糸に共鳴します。
死は決して恐れるべき存在ではありません。なぜならば、死は突然くるものではなく‘full circle,の中に組み込まれていて、生と死を繰り返しながら、徐々に入れ替わって行くものだからです。
人間の体は60兆個の細胞で形成されていますが、2ヶ月ほどでおおかた新しい細胞に置き換えられるそうです。ということは誰もが毎日1兆個の細胞の死と再生に立ち会っていることになります。1分間では7000万個になるでしょうか。すなわち、細胞のレベルで考えると、1分生きたことは1分死んだことであり、1日、生きたことは1日死んだことになります。そしてそれは1ヶ月でも1年でも同じですね。
つまり、Living⇔Death ではなく、Living=Dyingなのです。
ネイティブアメリカンの人々は冬を何度も経験して、冬眠を繰り返す中で、永眠とは少し観念の違う、いうならば円眠や遠眠に入ることができるようです。このことは人間の遠い祖先が、まだ野生の感覚を残していたころの哲学に思えてなりません。
できれば、毎日が「死ぬにはもってこいの日」でありたいですね。
突然に死が来るのではありません。生きた一日は死んだ一日。
一見、生の終りに死があるように思えますが、生の中に死があるのであって、
生の終りは死の終りです。すなわち、生死同時、生死同義なのです。