私だけの秋の七草
短歌・俳句・川柳・詩などを生涯に一度も作ったことのない人は、おそらくいないでしょう。ということは日本では全国民が詩人といえるのかもしれません。このような国は世界的にも珍しいようで、諸外国では知識人といえども、詩は鑑賞するだけのようです。
このことは五文字か七文字に区切ると、自然に詩になってしまう日本語の特性によるものでしょうか。しかも日本人は日常のあらゆることを詩的に数え上げてしまいます。
五感・五経・五行・五穀・五彩・五山・五色・五臓・五徳・五奉行、そして七星・七福神・七変化・七本槍・七難・七味・七色・七つ道具・七不思議など、きりがありません。
七草 も、その一つです。七草とは本来、秋の七草のことをいい、春の七草は 七 種 と書くようです。春の七種は 四 辻 善 成 が1362年頃に書いた源氏物語注釈書の『 河 海 抄 』で
「せりなずなごぎょうはこべらほとけのざ すずなすずしろこれぞ七種」
と詠んだものが 初出 とされています。しかし、よく調べてみると河海抄には「 薺 ?? 芹 菁 御 形 須 々 代 仏座 」と書かれているだけで、順序も違うし、「これぞ七種」という言葉も入っておりません。春の七種という概念が喜成によって掘り起こされたことは間違いないでしょうが、歌は、おそらく後の世の人々が七種の楽しみを広めていく過程で成立していったものなのでしょう。その結果、江戸時代になると殿様から庶民まで七種を 愛 で、粥に煮込んで味わうようになり、将軍も参加する儀礼にまで発展しました。風流が政治の一部にまでなったわけですね。
秋の七草は薬草として食するものもありますが、おもに観賞をするために選ばれました。 山 上 憶 良 が二首連続で詠んだものが、ことの始まりのようです。
「秋の野に咲きたる花を 指 折 り かき 数 ふれば七草の花」 (万葉集巻8 第1537番)
「萩の花 尾 花 葛 花 なでしこの花 女郎花 また 藤 袴 朝貌 の花」(万葉集巻8 第1538番)
二首目は和歌の古い形の 旋 頭 歌 で、577・577の形式ですね。憶良は遣唐使の随員として唐に留学したゆえ、唐の文献にあったものを無理やり詰め込んだのでしょうか。
「尾花」はススキのことですが「朝貌の花」はアサガオではありません。いろいろな説があるのですが、今ではキキョウであることが定説になっています。アサガオの種は下剤の 牽 牛 子 として使われていましたが花が観賞されるようになったのは江戸時代のことです。
憶良が詠んだ二首目を 先人 に 倣 って詠み直してみましょう。
「はぎおばなくずおみなえしふじばかま ききょうなでしここれぞ七草」
字余りのような旋頭歌にならず、うまい具合におさまりました。
さて、時代が 下 ると園芸が盛んになり、七草は庶民の好みに合ったものが選ばれていくようになります。
江戸中期の琴歌ではオトコエシ・リンドウ・ノギク・シオン・カルカヤ・キキョウ・ワレモコウが七草として歌われました。
男 朗 花 は 女 郎 花 に似た白い花で、ご飯を 装 ったように見えます。もともと、オミナエシは女飯(おみなめし)で黄色い 粟 ご飯、オトコエシは男飯(おとこめし)で白い米のご飯の意味なので当然でしょう。これも先人に倣うと
「おとこえしのぎくりんどうわれもこう しおんかるかやききょう七草」
と詠めますね。
江戸後期の文化9年(1812年)に『秋野七草考』を著した向島百花園初代園主の佐原 鞠 塢 はトロアオイ・リンドウ・オシロイ・カラスウリ・ヒオウギ・ゴジカ・ユウガオを選びました。これも先人ふうにすると、
「からすうりごじかゆうがおとろろあおい おしろいりんどうひおうぎ七草」
となるでしょう。
ゴジカは夏から秋にかけて直径4cmほどの 橙 色の花が咲きます。江戸時代に熱帯アジアから入ってきました。昼ごろ開いて一日で、しぼむので 午時花 というそうです。
ヒオウギは葉の並び方がヒノキの薄い板をとじあわせた 扇 子 に似ているところから「 檜 扇 」といわれます。すでに万葉時代からあるのですが、オレンジ色6弁で斑点のある花は殆ど歌われず、実の方ばかり60首以上も歌われました。「ぬばたま」という 枕詞 が、この実のことで、「夜」や「黒」に係りますから正確にいうと実自体を詠んでいるとはいえないかもしれません。
「筑波山に登りて月を詠む一首」
「 天 の原 雲なき宵に ぬばたまの 夜 渡る月の 入 らまく 惜 しも」
(天原 雲牟夕尓 烏玉乃 宵度月乃 入巻?毛)
舎人 皇子 (万葉集巻9 第1712番)
「 烏 玉 」はもともと「 烏 羽 玉 」と書かれたようです。黒真珠の集合体のような実の色や形をよく表しておりますね。
さて、さて、明治から昭和にかけて活躍した文化人が、それぞれ秋の花を一つずつ持ち寄って七草を選定しようというイベントがありました。昭和10年(1935年)、『日日新聞』(現毎日新聞)が与謝野晶子などの呼びかけで行ったものです。
長谷川 時雨 はハゲイトウ(葉鶏頭)を、斎藤茂吉はマンジュシャゲを、菊池寛はコスモスを、与謝野晶子はオシロイバナを、牧野富太郎はキクを、高浜虚子はイヌタデ(赤まんま)を、永井荷風はシュウカイドウ(秋海棠)を選びました。
この「新・秋の七草」も先人ふうにしてみましょう。
「はげいとうきくしゅうかいどうまんじゅしゃげ いぬたでおしろいこすもす七草」
このとき、仲間はずれにされた小説家で詩人の佐藤春夫は『秋花七種』というエッセー
を『文藝春秋』(13巻11号)に発表しました。それは新七草を選んだ7人を挙げて、それぞれへの感想を好意的に述べたものです。そして「ひとりの人間が一個の好みから、七様の変化と調和をみせた試みによる七草の選択もあってよかろう」といい、自ら次のように詠みました。
「からすうりひよどり 上 戸 あかまんま かがりつりがねのぎくみずひき」
「ひよどり上戸」とは赤い実のなる 蔓草 のことです。酒に酔って赤くなったような実は人には毒なのですが、ひよどりが好んで食べるので、この名前がつけられました。
「かがり」とはヒガンバナあるいは、マンジュシャゲのことです。「かがり火」に似ているからでしょう。
平成になってからも独自の感性を示した方がおります。マミフラワーデザインスクール主宰者のマミ川崎は『花と暮らす・花と遊ぶ 秋・花づくし』(講談社1992年)の157頁で「 吾 亦 紅 、 女郎花 、 鶏頭 、 葛 、 秋桜 、そして 紫 式 部 、洋種 山 牛 蒡 。これは従来の秋の七草のうち葛と女郎花を残し、新たに秋の草花を入れた、新・秋の七草です」と述べています。なるほど、紫式部や山牛蒡を生け花に使ったら面白いでしょうね。恐れ入りました。
「やまごぼうむらさきしきぶおみなえし けいとうこすもすくずわれもこう」
ところで慶應の赤レンガ図書館の八角塔脇にある小高い丘の上に詩碑が建っています。
さまよひ来れば 秋 草 のひとつ残りて咲きにけり
おもかげ見えてなつかしく 手折ればくるし花散りぬ
なんという響きのよさでしょう。文頭で五と七に区切れば何でも詩になってしまうようなことをいいましたが、それだけではないことが明らかですね。同じ七五調四行詩でも「荒城の月」のように漢詩調ではなく、平安朝の 今様 のような柔らかい雰囲気が感じられます。
「秋草のひとつ残りて咲きにけり」とは一面の花野が 千 草 から 百 草 になり、百草が 一 草 になってしまったということなのでしょうか、それとも、七草のうち 六 草 まで散り果て、一草だけが残っているということでしょうか。いずれにしても、もののあわれの極致ですね。
無粋な小生は、最後に残るのはミズヒキのような花びらのないものではないのかなぁ、などと考えてしまいます。それなのに「手折ればくるし 花散りぬ」とは、嗚呼!
作者は佐藤春夫、『断章』というタイトルで『殉情詩集』に収められています。処女詩集のタイトルに「純情」ではなく「殉情」という言葉を使った佐藤春夫は、誰に対する情に殉じたのでしょうか。
それは谷崎潤一郎の妻で後に彼に妻となる千代に対してであることに間違いありません。「手折ればくるし……」のフレーズは彼女の心を射抜いたことでしょう。
慶應義塾を卒業した作家文人は数多くおりますが、なかでも佐藤春夫は図書館横に碑が立つほどの大詩人なのですね。
さて、さて、さて、こうなってくると私も秋の七草を詠んでみたくなってしまいました。
葵 藍 茜 赤花 秋桜 明日 葉 晴れて 曙 草 な 安正
参考 胡麻ちんぴ 菜 種 麻の実唐辛子 山椒 芥子 の実 七味唐辛子
福禄 寿 恵比寿大黒 寿 老 人 弁財 布袋 毘 沙 門 七福