死ぬということはモーツアルトを聴けなること?

モーツアルトブームはいつごろから始まったのでしょう。以前はクラシック音楽といえばイコール、ベートーベンであったような気がします。

私が初めてベートーベンの「運命」を聴いたのは、中二担任の原保男先生の大型テープレコーダーによるものでした。世の中には、なんと荘厳な音楽があることか、これこそが芸術音楽なのだ、と思いました。

明治生まれの私の母も音楽の話になると、ベートーベンの「月光の曲」を引き合いに出しました。国語の教科書に出ていたそうです。

母より15年前に生まれた宮沢賢治もベートーベンが好きだったらしく、『セロ弾きのゴーシュ』に出てくる「第6交響曲」とは「田園」であろう、と言われています。

私はその後「田園」はもちろん「第九」や「皇帝」、弦楽四重奏やピアノソナタなどを聴きましたが「運命」に勝るものはない、と感じました。中学生の私にとってクラシック=「運命」だったのです。母を始め、音楽好きの友人も同様で、モーツアルトが好きだ、などという人は誰もいませんでした。

高校生になってからはチャイコフスキーやドボルザークを聴くようになりました。メロディーがロマンチックで胸をかきむしられる思いがしたものです。クラシックの演歌師とはよくぞ言ったものですね。このときも、モーツアルトが好きだ、という人は周りにおりませんでした。

エレクトーン教師になってからは当然かもしれませんが、バッハのオルガン曲が好きになりました。かといって自分で弾けるわけではありません。もっぱら聴くだけなのです。

このころ、エレクトーンの講習会やコンサートが終わったあと、口直し(耳直し)に、みんなでモーツアルトのピアノ曲を、よく弾いたり聴いたりしたものです。電気的な音響に ( たずさ ) わったあとのモーツアルトは、心にしみ渡りました。

「死ぬということはモーツアルトを聴けなくなることだ」という言葉を聞いたのも、そのころのことだったように思います。アインシュタインが言ったのだそうです。「なるほど、そうかも知れない」と、その時は思いました。

ジャズミュージシャンになってからはバッハのピアノ曲に魅了されるようになりました。特に「ゴールトベルグ変奏曲」を知ってからは、ほかの曲は聴かなくなってしまいました。いや、聴けなくなってしまったのです。

「人類だけが持ち得る芸術というものの中の、最大最高のレベルに達した唯一のもの」

 これが「ゴールトベルグ変奏曲」に対する私の評価です。特にグレングールドのものがすばらしい。新版、旧版、どちらもいいです。

 バッハの時代には、まだピアノができておりません。チェンバロしかなかったのです。チェンバロは二段鍵盤ですので手を交差しやすく、バッハの殆どの曲はそれを見込んで作られました。ですから鍵盤が一段しかないピアノで弾くと超絶技巧になってしまいます。グレングールドは、超絶技巧は勿論、超人的な精神性を持って、それをこなしています。

そういえば、ジャズのコルトレーンやエバンスにはバッハやグレングールドと共通した独特の気高い精神性が感じられますね。

気高い精神性とはフラクタル性を伴うすべてのものとの一体感、いうなればミクロコスモスからマクロコスモスに至る宇宙感、ということになりましょうか。僭越ですが拙作の『宇宙と人間の法則』を読んでいただけると何らかの手がかりになるかもしれません。

ミクロ的な、ジャズとの一体性をいうならば、「ゴールトベルグ変奏曲」はパッサカリアであるから、といえます。パッサカリアとは反復されるベースラインに対して、アドリブラインを形成することですからジャズそのものといえましょう。バッハは偉大なるジャズメンでもあるわけです。

私は、モーツアルトはソナチネなどのピアノの練習曲から入ってしまったせいか、子供っぽく感じてしまいます。嫌いではないのですが、自分から聴きたいと思って聴いたことはありません。

モーツアルトの好きな人は、この「子供っぽさ」がいいのでしょう。童謡唱歌のような単純明快さ、天使のような素直さ、などに引きつけられるにちがいありません。

現代社会は複雑化し過ぎました。それに伴い現代音楽も複雑になり過ぎました。せめて音楽くらいは濁りのないものを聴きたい、という気持ちも解るような気がします。

アインシュタインは人類史上最も複雑なことを考えた人、といえるかもしれません。彼がその脳内を鎮めるためにモーツアルトを聴いたことは当然でありましょう。おそらく、彼は、このことにより、大きな幸せと深い喜びを得て大成したに違いありません。

私は長い間、音楽に携わってきましたが、音楽を鑑賞する喜びを、あまり知りません。どうしても仕事上、聴かなければならない音楽が優先されて自分の好みは後回しになってしまったのです。

いま、仕事が暇になって、嬉しいこと、それは中高生のときのように心底、好きな音楽を聴けることです。実はいつか、こういう時がくると思い、若いときに買い込んだスコアを全部、保存してあるのです。引っ越しの度毎に邪魔になりましたが、やはり捨てなくて良かったと、つくづく思っています。

さあ、今夜もスコアを引っぱり出して、クラシックを聴こうか。久しぶりに「運命」を聴いてみよう。それとも、やっぱり、「ゴールトベルグ」かなぁ。

何を聴こうかと迷う喜び、ただひとり、座禅を組むがごとく鑑賞する幸せ。

生きているということは、この大いなる芸術に触れ合えること。

生きているあいだ!生きている限り!

死ぬということは、グレングールドの弾く「ゴールトベルグ変奏曲」が聴けなくなる、ということ。

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