山の章
Prologue
「山には憂いがある」という歌があるが、
山に憂いなどない。
あるのは、
まず厳しさ、
それにプラス、
わずかの優しさと、
とてつもない美しさだ。
この三つをバランスよく、
噛み締めて、味わうことで、
登山者の心は充足し安定する。
「そこにあるから登るのだ」という
そこにある山は、いつも同じではない。
「山は逃げないから」といって登らないのは、
腑抜けたやからの、それこそ、逃げ口上である。
今日の山を、明日は、もう、誰も、登れないのだ。
「ムダな汗を流して、なぜ、登るのか」という人もいる。
「今!生きている!」という感覚は汗を流すことによってのみ、
充分に味わえる。しかし、見ても触れても、汗に値段は付いてない。
そして、「そんな感覚は味わいたくない!」という人は生きていないのだ。
これら(厳しさ・優しさ・美しさ・生きている実感)を自分のものにするには、
一人歩きが最も良い。文字どおり独り占めだ。その代わりリスクも独り占めである。
そのリスクが、また面白い。最終的には、命の、やり取り、になるのだけれど。
どうせ人生、何をしても、しなくても、運命との、命のやり取りである。
秋分の日、火打岳に登る
車を運転して自宅を午前0時に出発、笹ヶ峰牧場には6時少し前に着いた。このあたりは残雪期にテレマーカーが集まるところで、片流れの適度なスロープが幅にして2,3kmも続く。登山道を1km入ったところに車を置けるそうだが、バス停のある広い駐車場に置き、6時20分に出発する。
1時間ほど進んだ所にある黒沢は沢というより滝で、上質な水場だ。それからが急登である。岩の間に生えている木の根につかまりながら、ひたすら登る。約1時間後、黒沢池への道を分ける富士見平に着く。しかし、富士は見えず、妙高の方が少し開けて見えるだけ。10分ほど休んで
高谷池は山中のオアシスだ。ヒュッテでは池の水をそのまま引いて飲料水にしている。このあたりは木道が施設され、植生はしっかりと守られている。登山口付近も同様であった。
今日は秋分の日で天気も良く、休日なので登山者が多い。ヒュッテ前の広場にあるテーブルは、ほぼ満席だ。しかたなく若いアベックと同席して、おにぎりを食べる。30分休んだ後、アベックの男の人にシャッターを押してもらい、すぐ出発する。
天狗の庭といわれるあたりの木道の両側にはリンドウが群生している。湿原を抜けて背の低いダケカンバのある稜線に出ると右側(北側)が崩れていて危険だ。展望が開け、日本海が見えるが、海と空の違いがよく分からない。丸太で出来た階段が続くハイマツ帯を登ると、あっけなく頂上に着く。時計を見ると10時45分であった。
11時15分、頂上を後にし、笹ヶ峰牧場には15時15分に帰着した。
秋の富士
富士は私の心を優しく、そして厳しく癒してくれた。登っても、ただの瓦礫と砂の
朝5時、ヘッドランプをつけて須走口を登り始める。ちょうど、樹林帯を抜けたところで夜が明け、黒々としていた木々の葉が、実は見事に紅葉していることに気がつく。しっとりと夜露にぬれた赤や黄色の木の葉に、柔らかく
前半は風もなくぽかぽかと暖かくて快適だったが、後半は無理をすれば命にかかわるかも知れない状態になる。レンズ雲は強風の前触れだった。だんだんと風が強くなり小石が飛んでくる。山が、雨水や雪解け水で浸食されていることは知っていたが、目の前では、風で削られている。音を立てて飛んでくる石に、そのことをいやおうなしに納得させられてしまう。ベテランらしい人がヘルメットを着けているのは落石への用心だけではないようだ。
棒切れを杖にして対風姿勢を何十回もとり、風が息をする合間を縫って登る。一応の頂上とされる浅間神社奥宮には11時に着く。高度計は3750bをデジタル表示している。が、そこから先は進めない。あまりにも風が強い。最高点の剣が峰は火口を挟んで反対側にあるのだが…。
両足を広げて杖に体重をかけ、前に斜めに寄りかかることを「対風姿勢をとる」と登山用語でいう。しかし、それを確実にやっても、体が荷物ごと持っていかれそうになってしまう。案の定、一歩、進もうとして左足に体重を移した瞬間、バランスを失って、みごとに飛ばされてしまう。斜面であったなら滑落していたであろう。
諦めた。高度計の誤差を入れても、あと何メートルかで日本のテッペンに立てるのだが、残念とは思わない。心も風に削られて、すっかり丸くなっていた。取りついていたものが、吹っ切れた。
3週連続の休日山行で、やっと剣が峰に立つことができた。もっとも、1週目は初めから途中下山の予定だった。
きょうは、全国的に移動性高気圧に覆われ、少しの雲もなく、駿河灘のシーラインが、逆の言い方だが、地図のとおりに見える。これまでに登った北アルプス・中央アルプス・南アルプス・八ヶ岳などが、これも逆の言い方だが立体パノラマを見るようだ。特に八ヶ岳は声を出せば届くような近さである。
9時、3350b付近で面白いおじいちゃん(80歳)とそのサポーター(山では珍しい美人)に会った。毎週のように富士山に登り、きょうは875回目だという。言われてみれば先週も会ったような気もする。ヨモギを頬に含んで飴を舐めると疲れがとれることを教えてくれた。合気道の達人で、大男を指一本触れずに倒すことができるという。高山病で意識のない人を、気功で治したこともあるとのこと。そして下りには使わないからと言って金剛杖を、いただいてしまった。下りこそ必要なはずなのだが…。
1000回記念登山を盛大にやるのだと言っているこの横山茂さんとは名刺を交換して別れた。いただいた金剛杖が上部のアイスバーンで役に立った。先週は白いものなど一切なかったのだが、もうこれからはピッケル・アイゼン無しでは無理であろう。
それにしても、頂上上空を飽きもせず旋回していた鷲は何のために飛んできたのだろう。餌など無いはずなのに。
キリマンジャロの豹を思い出した。動物にも、へそ曲がりはいるんだなぁー。
富士山頂天上天下唯在我 安正
追悼の浅間山
殆どが単独行の私も、以前はかけがえのない山仲間がいた。一人は青木
青木は雨の夜、酔っ払った銀座のクラブのママが運転する車に同乗し、その車が電柱に激突、窓から放り出されて死んだ。棺の上には愛用のバイオリンが置かれ、彼の曲を歌う歌手が、それに触れながら、こぼれる涙を床に落としていた。
それから、しばらくして、仕事のついでに銀座の鈴木を訪ねると、店が
絶句……、ああ!幾たび、共に山を
この浅間山も、その中の一つである。が、その時は火口の手前2キロメートル地点までしか登っていない。火山活動があり、登頂禁止だった。今でもそうである。そうではあるのだが、今回はなんとしてでも頂上を踏みたい。二人の男を弔うための登山なのだから。一人で……。
浅間山荘を9時ちょうどに出発する。9月に入ると、山は快適な筈なのだが、今日は結構暑い。今年の夏は後半になるほど益々気温が上がってくる。
一の鳥居の沢沿いでは7,8人がバーベキューをやっていた。挨拶をして通り抜けようとすると「材料が残りそうだから、是非、食べていって」という。喜んでお相伴にあずかる。これも二人の引き合わせなのであろうか。もう満腹だ。ビールも何杯か御馳走になった。礼を言い、ほろ酔い加減で山道を進む。
二の鳥居を過ぎると、蛇堀川も、か細くなってきた。沢水を舐めてみると渋い。イオウが溶け込んでいる。そのうえ、川床には鉄分が染み込んでいて赤黒い。とても飲めたものではない。
三の鳥居を過ぎると懐かしい
しばらく進むと、これまた懐かしい湯の平だ。ここは旧火口が埋まって平原状になったところで、一面のお花畑になっている。あの時もそうであった。3人で花の名前の当て比べをした。私の答えは全部ミヤマシラネー草だったけれど。
山には魅力に満ちた場所がいろいろあるが、文字通りの「山上の楽園」とはこういう所をいうのだろう。
間もなく立ち入り禁止の柵にぶつかった。しかし、今日は行かねばならない。前進する。
霧とも火山ガスとも思えるものに包まれた、と思ったら火口の淵に立っていた。頂上は確か向こう側のはずだ。左回りに火口壁の上を進む。ちょうど半分ほど回り込んだら、峰の茶屋に下りる踏み跡が火山灰の中に
それにしても活火山の火口とはすごい所だ。何かに吸い寄せられるような、飛び込みたいような気持ちになってしまう。底にマグマが見えるかと思い、覗いたが、まさかそれは見えない。イオウがこびり付いた黄色い岩が、折り重なって下方に続き、割れ目や穴からはもうもうと煙が噴き出している。成分は勿論、硫化水素、巻かれたら命は無い。
風向きにあわせて気持ちだけでも火山ガスを避けながら、なおも左回りのコースを取る。高さ5メートルの岩場に出る。左に滑落すると火口に真っ逆さま、右に落ちても命はない。心を入れて慎重に登る。前掛山の正面に来た。元の位置に戻った。
下山だ。火口から10メートルも離れると、もう火山ガスは追って来ない。岩に座って少し休む。風が出てきた。かなり強い。前方には蛇骨岳から黒斑山までのスカイラインが見える。あれを共に踏破してから、もう何年経っているだろう。よそう、計算するのは。
風の吹き荒れる湯の平に下りて来た。日本一のバーテンダーの鈴木から貰った小さなグラスに、用意してきたレミーマルタンを
浅間山荘には15時40分に戻った。
浅間山偲びし友の杯に風泣き吹きて灰の入るらん 安正
奇跡の軌跡
〈奇跡〉を辞書で引いて見ると――常識で考えては起こりえない出来事――とある。
27歳で生まれて初めてスキーをはいた人間が63歳で日本一になる――これはスポーツ界の常識では起こり得難い。その軌跡をふり返ってみよう。僭越ながら私自身のことである。
テニスから登山へ
中学生のとき、今でいうソフトテニス、軟式庭球をやっていた。町の大会で優勝を争い、郡の大会でも上位に入るレベルだった。もちろん、寸暇を惜しんで練習し、徹底的に技を磨いた。ところが、あるとき急にいやになった。テニスが嫌いになったのだ。
テニスに限らず殆どの球技の本質は「意地悪」の追求である。誰もいない所にポトッと落とし、「ざまー見ろ」――この原理である。これだけの説明では身もふたもないので、この原理がどこから来たものか、もう少し丁寧に見てみたい。
球技は社会生活の縮図であり、比喩としてのスポーツといえる。チームワークが必要とされるが、それは大いにして個人の犠牲の上に成り立つ。加えて先手必勝を目指し、後手になっても最後まで諦めず、
人生は1回かぎり、なんとしても勝ち進みたい、しかし、いつでも勝てるものではない。すばらしいショットをあっさり捕られてしまうこともあれば、平凡なストロークを相手がエラーしてくれることもある。それなのに、人はミスが続けば不運だと思い、棚から牡丹餅が転がり込めば幸運だと思い込む。客観的に見ればチャンスは公平なはず、どんな人にもチャンスはあるし、チャンスが逃げていくこともある。そして誰にでも最後の一球が訪れる。この過程において、もっとも大切なことはルールを守ることである。ところが、誰もいないところ狙うには、ルールぎりぎりのところを攻めなければならない。
中学生の私が考えたのはこうである。2球連続、強いサーブを間髪を入れずに行うこと。今では当たり前であるが、当時は1球目に強いサーブを打ち、フォールトになったら十分に間合いを取り、スローサーブを行うのが常識であった。強いサーブを2本そろえることは並大抵のことではないが、必死の練習でなんとか実戦に使えるまでにした。間隔をあけ過ぎては意味がない。こぼれ球の処理が終わるや否や早めに次の球を繰り出す。こぼれ球処理についてのルールは無い。処理が終わってないところへ打ち込もうとすれば審判が中止させる。私のプレーについて審判からクレームがついたことはなかった。ところが相手チームの監督が立ち上がって私を指さし、「それは卑怯だ。卑怯者!」と叫んだのである。その一言で中学生の私が3年間、特訓を重ねて身につけたリズムはガタガタにくずれ、見るも無残な負け方をした。いま冷静になって考えてみると、相手チームの監督の方が卑怯であったような気がする。疑問があるならば審判に申告して判断を仰ぐべきであろう。
最近になって、やっと日本でもスポーツマンシップよりゲームズマンシップが求められるようになってきた。特にサッカーでは「マリーシア」が必要とされている。「マリーシア」とは元来、ポルトガル語で「ずる賢い」という意味なのだがサッカーでは「頭脳的な美技」と捉えるようだ。かけひきの複雑化と共に精神性も複雑化していかざるを得ない球技は、やはり社会生活の縮図であり、比喩であり、私も含む人間の厭らしい精神をゲーム化したものなのである。
ゆえに社会生活のわずらわしさを厭う人間はテニスを含む球技を当然、嫌うようになる。このようなわけで私は、それからしばらくの間スポーツから離れていた。
19歳でプロのミュージシャンになった私の生活は、忙しかったが体力は余っていた。かといって人から、あれこれ言われるテニスは、もう二度とやりたくない。人様に関係なく自分の考えだけでやっていけるスポーツはなんだろう。そう思って、出演しているクラブ「白いバラ」の近くを歩いていると「銀座好日山荘」の看板が目に入った。登山道具の店である。店内に入ると背の高い、見るからに人の良さそうな青年が言った。
「山はいいですよー。特に今ごろは人っ子ひとりいません。全部ひとり占めです」
この好青年は道具を買うことを勧めなかった。
「とにかく、運動靴ででもいいですから、一度行ってみることですよ」
この一言で決まりである。私は、すぐさま運動靴に旅行カバンのいでたちで、秋の秩父妙法ヶ岳に登ってみた。
この
私は考えた。
「このまま、登山の深みに入っていくと死ぬか障害者になるか、どちらかだなぁ。そうだ、八方尾根で見たスキーをやってみよう」
その年の5月、唐松岳を目指して八方尾根を登っていた私は山スキーを履いた人に追い越されて悔しい思いをしていた。しかし、登るためのスキーといえども、まず滑れなければ話にならない。
こうして、私は27歳の1月からスキーに取り組んだのである。やってみると、なかなか難しい。27歳ではすでにバランス能力が落ち始めている。しかし、その困難さゆえ、私の心は雪を求めて白一色になっていくのであった。
スキーを始めたころ
上越国際スキー場は今や一大通年リゾートになり、大きなホテルやレストランが敷地の中に建っている。しかし1970年代には17号国道を渡ったところにあるパラダイスホテルが唯一の一流宿泊施設だった。玄関を入って右側が中華レストラン、左側がナイトクラブ、2階に10ほどの客室があるだけの小さなホテルなのだが、皇室御用達でもあり、なかなか格式は高い。このホテルで私は「ポール石田とハイフレックス」というバンドのピアニストとして、1月から3月まで、3年間にわたって仕事をした。スキーフリークの石田さんが所属音楽事務所の社長に頼んでスキー場の仕事を都合してもらったのだ。
27歳の年の1月1日午前9時に私は生まれて始めてスキーを履いた。もっと正確にいうならば9時から履き始めて9時半にやっと履くことができた。私のスキーは登山用なので、まず、かかとが上がらないように固定し、牛革でできたベルト状の流れ止めを足に縛りつけるのだが、長さがたりなくて紐を継ぎたさねばならなかったからである。
やっと履けたそのスキーで、ゆるい斜面を10歩ほど、横歩きで登り、おそるおそる滑り出すと石田さんは「転べ!」という。まだ、止まり方が分からないからだ。起きあがって、また10歩、起きあがって、また10歩、と、何回か、くりかえして、なんとか止まれるようになると、もうリフトに乗るという。
リフトから降りた途端、したたか転んだ。それもそのはず、そこには上級者用のコースが広がっている。まず起き上がり、滑り、転び、また起き上がり、転び、また滑り、もうメチャクチャだ。だが、斜面が急なことが逆に良かったのか、スキーは横にしてもコントロールできることがわかった。
1日目は石田さんにつきっきりで面倒を見てもらったが、2日目からは朝から夕方まで1人でがんばり通した。こうして1週間もたつと自分の行きたいところへ自由にいけるようになっていた。
ふる雪や自在に生きる道ありて
パラダイスホテルでは午後7時から演奏を始め、30分ステージを5回こなすのが毎日の仕事である。音もなく雪の降る夜の社交場はムード満点で、お客さんにはなかなか評判が良い。そのお客さんの1人にスキー学校の高橋先生がいた。この方が現われると、我われバンドの4人はイッセイに取り囲み、ホステスさんそっちのけで接待を始める。そうなると、その席は、にわかにスキー技術ミーティングの場となり、高橋先生は立ち上がって身振り手振りを加え、わかりやすく、くわしく教えてくれる。そのお陰で石田さんを始め、全員が、めきめきと上達した。にもかかわらず、私のスキー技術が3級ほどになったとき、そのシーズンは終りになってしまった。
2年目は勝手が分かっているので手馴れたものである。雪おろしも面白そうなので自分達も屋根に登って上越線の列車でも眺めようとすると、「馴れない人がやってケガをされると返って迷惑だから」と家主に
雪の壁汽笛は重くくぐもりて
その宿舎はホテルから少し離れた一軒家で1階が広いLDK、2階は廊下を挟んで2部屋になっているので充分に余裕があり、友達を呼んで宿泊させるには好都合であった。遊びに来るミュージシャンはスキーをするのが目的なのだが、夜は演奏に加わってくれるので、ホテルの人も喜んでくれる。
そのようなある日、気がゆるんでいたせいか、ボヤ騒ぎを起こしてしまった。2階で寝込んで1時間ほど経ったとき、消したはずの石油ストーブが燃え上がった。消したのは私なのだが、地震のときなどに使う〈クイック消火〉を使ったのがまずかったらしい。不完全燃焼を起こして、1階の居間、特に天井が油煙で真っ黒になってしまった。それを朝までかかって雑巾で拭いたのだが、後になって「火災保険用の写真をとるのだから、そのままのほうがよかったのに」と家主に言われた。
そのときもアルトサックス奏者の柿沢さんが助っ人に来てくれていたときで、彼はボートで海に出て帰れなくなったときの話をしながら「ケガもなく、命があっただけで、なによりだ」と言って、不始末をしでかした私を慰めてくれた。
スキーは相変わらず毎日やっていた。今考えると夢のような話であるが、当時は従業員用パス券があって、滑りたい人はいくらでも滑ることができた。とはいっても、あまり体の丈夫でない石田さんや、他の2人は雨の日などは休んだ。私は性能の良い登山用の雨具をもっていたので、ほとんど休まずに滑った。そのせいか、そのシーズンの終りには2級を取得することができた。
心技体白い世界に吸い込まれ
3年目になると、もう恐いものなしで、他のスキー場へも遠征をした。シャトー塩沢・
ひと月に2日の休みを利用して、映画を見た後すぐに、このスキー場のナイター照明を浴びて滑ると、それだけで一段と巧くなったような気がしたものである。
ちなみに、ハイフレックスとは柔軟性・応用性の高いオールマイティースキーの商品名、ブリザードは上級者用スキーの商品名で地吹雪の意味である。
このように、どちらが仕事なのか、わからないほどスキーに熱中したのだが、この年の3月に受験した1級のバッジテスト(全日本スキー連盟技術検定試験)には合格できなかった。やはり、1級の壁は厚いのである。
アルペンスキーからテレマークスキーへ
山で死なないための方策としてスキーをやる――このことは結果的に大成功であった。スキー自体の魅力に取りつかれた私は岩登りや沢歩きから離れていった。藤田さんが好日山荘をやめてしまい、教えてくれる人がいなくなってしまったことも原因かもしれない。好日山荘には藤田さんの他に「北壁の四十三日」の著書で有名な遠藤二郎さんと新入社員の北田啓郎さんがいたが、北田さんが仕事に慣れたころに藤田さんは退社してしまった。
さて、雪山を登るために始めたスキーなのだが実際に使ってみると、いろいろと不都合がある。まず、重い。感覚的にはワカンやアイゼンの10倍ほどになろうか。少しでも軽くしようと思い登山靴にスキーをつけると、今度は不安定で滑れない。その頃は性能のよい兼用靴が、まだなかったのである。シールの接着剤も良く剥がれた。いっそのこと紐締めの方が良いかと思い使ってみたが、縛ってない部分に雪が入ってふくらんでしまう。結局、最も快適な方法はスキーをザックの両脇に差し込んでツボ足で登ることであった。これは雪が締ってくる残雪期しかできないが、それで十分だった。新雪など滑れなかったのだ。
それからしばらくして、好日山荘で修業した北田さんが独立して自分のお店を持つという挨拶状が届いた。クライミングとテレマークのお店だという。クライミングはともかく、テレマークスキーはやってみたいと思ったが、ちょうどその頃の私は目の回るような忙しさであった。昼・夜・夜中、ピアノ・エレクトーン・シンセサイザーを弾きまくっていた。
まだバブルは続いていたが、世の中の動きを1,2年先取りする私の仕事が暇になりかけた1990年、北田さんのお店「カラファテ」を初めて訪ねた。
迷うことは何もない。私は2b7aのカルフの板と2バックルのスカルパの靴を求め、早速、講習会の予約をした。
テレマークスキーは不安定で頼りなかった。エッジが無いような、丸くなっているような感じがする。ふんばりが効かない。すぐ後ろ向きになってしまう。しかし、たった1つ、何よりも、すばらしいこと、それは軽いことであった。その軽さは感動的でさえある。そして、難しさも……。
北田さんや「きのこ」の著書で有名な小宮山勝司さん、その友人の松本美富さんなどの薫陶を得て、なんとか滑れるようになった私は喜び勇んで山に出かけた。そして、まず、その歩きやすさ、登りやすさに目を見張った。靴が母指球の部分からしっかりと曲がり、ロボット歩きではなく、人間の確かな歩き方ができる。滑りもスピードが出にくいぶん、思ったより安全である。欠点はスキー板が長くて木に引っかかることと、靴が革製のため、水がしみ込んでくることである。しかし、長さは細さと軽さのためであり、革製であることは歩きやすさのためであるから、どちらを取るかの問題だ。
根子岳・
もう一つの楽しみであるテレマークスキーのレースを知ったのは北田さんの勧めで日本テレマークスキー協会(TAJ)に入会してからだ。アルペンスキーではレースなど夢のまた夢だった。アルペンレーサーは子供のときから瞬発力や持久力は勿論、バランス能力や動体視力を過酷な練習で鍛え上げ、旗門の読み方やライン取りを学んでいる。私のように27歳から始まったヨタルスキーでは太刀打ちができないのだ。ところが、テレマークスキーのレースは旗門と旗門の間が長くとられているので読みやすい。スピードもあまり出ないので私の動体視力でもついていける。必ずあるジャンプは勇気が必要だが、登りやランセクションは体力さえあれば、なんとかなりそうだ。こうして私はテレマークスキーレースの世界にのめり込んでいった。
最初は1992年3/28、峰の原スキー場でのビギナークラスで3位になった。これは1回しか出られない。次からはポイントレースに進む。シーズン中何回か対戦し、合計点数を争うシステムになっている。93年は1/31黒姫16位、2/28白馬ハイランドクラシック14位。94年・95年も何試合か出場したが大会記録が10位まででカットされている。96年は3/3朝日プライム17位、3/30峰の原17位、トータルポイント9で57位。97年は3/29峰の原20位、トータルポイント2で74位。
51歳になった98年からは新設されたポイントマスタークラス(35歳以上)に出場。1/25白馬ベイリーズクラシック4位、トータルポイント17で29位。99年は3/7朝日プライムカップ10位、トータルポイント11で33位。2000年は1/30白馬クラシック8位、3/5 朝日プライムカップ15位、トータルポイント19で23位。01年は3/18志賀高原焼額パタゴニアカップ15位、トータルポイント6で32位。02年は2/3白馬ミレーカップクラシック9位、3/17志賀高原焼額パタゴニアカップ23位、トータルポイント12で28位。
03年になると日本経済の低迷のせいか関東甲信越では栂池と白馬みねかたの2大会だけになってしまった。05年には母親の介護が始まり、日帰りの強行軍になった。出走が済みしだい、結果を待たず、すぐ帰路についた。無理にでも出場した方がかえって精神的に解放され、母にも優しくなれた。主催者の山田誠司さんには旗門通過時の写真を郵送していただいたことを今でも感謝している。08年には母親もかたづき、自由になったのだが肝心の大会は白馬みねかたのみになってしまった。09年も白馬みねかたのみ出場した。
ところがどういうわけか、10年になったら55歳以上のポイントグランドマスタークラスが新設されるとともに、急に大会の数が増え、北海道を含めて20試合になった。この降って湧いたようなチャンスを見逃すという手はない。1試合のポイントは低くても数をこなせばチリも積もって山となるのである。
12月の4試合は準備不足で出場できなかったが、固い信念を持った私は1月からの試合の完全出場を目指した。
1/23,24秋田県田沢湖スキー場、3レースとも1位16点、合計48点。
2/20,21長野県山田牧場スキー場の4レース、2位12点・3位9点・2位12点・3位9点、合計42点。
2/27,29長野県菅平スキー場の2レースとも2位12点、合計24点。
3/14福島県裏磐梯スキー場の1レース、1位16点、合計16点。
3/20,21北海道桂沢スキー場の2レースとも1位16点、合計32点。
4/10,11北海道中山峠スキー場の4レース、3位9点・3位9点・1位16点・2位12点、合計46点。
以上16試合のすべてを完走、トータルポイントは208点になった。ちなみに、トータルポイント2位は92点、3位は89点、4位は19点、5位は16点であるから、私の圧倒的な勝利である。
こうして私は63歳にして日本一のタイトルを取った。
山とジャズの先輩の紙谷さんに言われたことが忘れられない。
「山屋は甘い、点数がつかないからね。ジャズメンの考えも甘い、点数のない世界にいるからね。人生は、ごまかして生きちゃ、つまんないものなんだけど……」
それ以来、何か点数がはっきり出るもので勝負をしたいと思っていた。これでやっと、わが人生に点数がついた。
ここでこの「奇跡」の種明かしをしよう。グランドマスター部門は参加者が少ないのだ。3,4人いればよい方で、私一人の場合も多い。私より速い人は沢山いるのだが、その方たちが出場しないのだ。
私は田沢湖カップのウェルカムパーティーで指名を受けて、次のようにスピーチをした。
「大会に出場するためには4つの要素を満足させなければなりません。金・暇・体力・気力です。これらのうち最も大切なものは気力でしょう。気力さえあれば他のものはなんとかなるものです。このことは年齢に関係なく共通しています。いくら実力があっても試合に出なければ誰も評価してくれません。ですからレースに出ようという心意気が大切です。気合いだ!気合いだぁ!気合いだぁー!そして最後に試合だぁ―!さあ、皆さんも一緒にポテンシャルアップしましょう。気合いだ!気合いだぁ!気合いだぁー!そして最後に試合だぁ―!」
私の生涯スポーツはテレマークスキー・登山・カヌーの3つであるがテレマークスキーは、これからも目標を高く掲げてやっていきたい。
だって、やればやるほど巧くなるし、面白いんだもの……。
後列右2 人目のおじさんはこの若い方々から元気をもらった
前走はノルウェーナショナルチーム世界NO1アイリック=リキュース氏
スタート台
ホワイトアウトになった前頭葉が
ツ―ンと旗門に集中されていく
何もしていないのに苦しい
息をするのを忘れていた
何という時間だろう
何という場所だろう
気力体力技術力運力
自分の全てを賭けて
この宇宙に没入する
いま 生きている
ああ 生きている
凝縮された生
凝縮された体
凝縮された時
凝縮された空
なにもかもが
ひとつになる
無限の一瞬
今こそ永遠
ここには
今我しか
いない
この
一瞬
こそ
永
遠
・
・
.
.
やまやま
花粉が飛んでくるのは やまやまだけど 春山さんに会いたいなぁー
つらら 代かき馬 種まきじいさん ふきのとう かたくり
汗だくだくになるのは やまやまだけど 夏山さんに会いたいなぁー
雪渓 雷鳥 ブロッケンの妖怪 沢登り 岩清水
日がみじかくなるのは やまやまだけど 秋山さんに会いたいなぁー
秋のきりん草 松虫草 りんどう すすき
年末年始で大変なのは やまやまだけど 冬山さんに会いたいなぁー
吹雪 新雪 雪洞 ご来光
Epilogue
あ
なに
なにか
指の先の
小さなもの
ふるえる何か
己の小さな鼓動
草の木の花の命や
石ころや岩の命さえ
この ちっぽけな命と
重なりあって見えてくる
え
なに
なにか
通じあう
気のせいの
ように
いのちどうしの
目に見えない何か
ふるえのようなもの
何という静けさだろう
本当のいのちの交わりは
それをふたたび感じたくて
耳を澄まし 心をととのえて
生きている山に入らせてもらう
そそとふれあうために そそっと
へたそうに見えても実はうまいことをへたうまと言うらしい
山に登るとへとへとになるがいきいきとして帰ってくる
これをへといきと言いたいさぁまた明日出発だ
へといきは人生のひといき
へとへといきいき
反吐意気
意気
気