成功した3S作戦

(夢と感動に餌付けされた日本人)

 アテネオリンピックが終わりました。いつのオリンピックでもそうですが、今回は特に「夢と感動」の大安売りで、やわらちゃんを始め、あらゆる選手が「夢を与えたい・感動を与えたい・夢と感動を与えたい」と義務であるかのように言っていました。

 オリンピックばかりではありません。高校野球も今回、初めて優勝旗が津軽海峡を渡り、「夢と感動を与えられた」北海道民は大騒ぎをしております。

 3何年ほど前にはなりますが、貴の花が引退する原因になった一番を「感動した!」と一言で片付けて、国民を感動の渦に巻き込んでしまったのは、ほかならぬ小泉首相自らでありました。

 スポーツ界だけではありません。東京ディズニーランドを始め、多くの企業が「お客様に夢と感動を与える・感動を与える品質・感動を与える新商品」などと、わめき散らしてシノギを削っています。

このように大量に次から次へと、のべつ幕なしに「夢と感動」を「与え」られて、人は健康な精神状態を保てるのでしょうか。

それにしても他人から与えられた感動など、感動と呼べる代物ではないでしょう。それはスポーツを観戦しただけで実際にプレーしたように勘違いをしてしまうのと同じレベルの感動に過ぎません。

アブナイ!アブナイ!このように無制限に低次元の「夢と感動」という餌を与え続けられていたら、心がフォアグラ状態になってしまいます。現にサッカー先進国のイギリスな

どではフリーガンとか称し、自分が手柄を立てたつもりで大騒ぎをし、反社会的行動をとるような、フォアグラ=マインドともいうべき人間がたくさんいるではありませんか。

夢は自分で見るもの、あるいは発見するもの、感動は自分から求めるもの、あるいは勝ち取るものであって、決して誰かから与えられる、餌のようなものではありません。

夢とか感動というものは脳の一部に前頭連合野を持つ、人間だけに理解できる「心の領域」とも言えるものです。しかし、本当の感動は脳の組織だけで、でき上がるものではありません。第2の脳といわれる筋肉を修練させていくうちに、徐々に内的なものが高まり、あるとき爆発的に脳内に広がったものこそ、本当の感動でありましょう。寝転んだままで真の感動を得ることは、あり得なくはないでしょうが、まず、考えられません。

タイトルの3S作戦とはGHQが日本国民に仕掛けたもので、「スポーツ・セックス・スクリーンの情報を大量に流す事によって、大衆を低次元化、白痴化し、バーチャルと現実の区別のつかない社会を作ってしまうこと」と言われています。それこそ、現実かどうかは疑わしいのですが。

むしろ日本人自らが、その作戦を好んで実行したことこそ、問題でありましょう。「誰が何のために」ですって。それは簡単なこと。作者や製作会社が、わずかなお金を得るために、大衆を麻薬患者のようにしてしまったのです。もちろん、そのことは客筋の要望であったことも間違いありません。そしてそれは最近、益々ひどいことになってきております。例えば、映画「バトル=ロワイアル」など、模倣犯が生まれることを承知で製作したとしたら、刑法上の「未必の故意」になってしまうでしょう。この場合の「未必の故意」は傷害罪になり得ますが。

さあ、このようにして腰抜け、腑抜け、脳無しの麻薬患者同様になってしまった人々を救い出す手立てはあるのでしょうか。

ありません。

言ったでしょう、感動は自分から勝ち取るものだって!

より速くより高くより強くとて 心なければ意味も無かりし     安正

 感動する心を持つ事は決して悪いことではありません。しかし、あまりにも無批判に感動をすることには問題があります。安っぽい感情で大衆を思い通りにしようとする人の罠に嵌ってしまうからです。判断力を養い、感動の陰にある抑圧や差別などに気が付かなければなりません。簡単に心を動かされ、騙されてはいけないのです。批判力を養いましょう。

ローマ時代、コロセウムで現代同様の「感動」を「与える」ことを始める以前、心ある人は、このことに気がついていました。

紀元前、今回と同じアテネで古代オリンピックが開かれていた時代、すでにギリシャの歴史家ヘロドトスは「一人の人間より大衆を欺く方が容易なり」と警鐘を鳴らしています。

愚民化政策は政権安定の最も安易な手段であると同時に、戦争への布石の第一歩でもあることを知らねばなりません。戦争を仕掛けて肥え太る人たちは実に繊細で巧妙な神経を持っているのです。

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