順番は誰にでも回ってくる 

「とうとう、私にも順番が回って来てしまいました」

93歳になる母が便秘でどうしようもなくなり、訪問看護の方に便を取り出してもらった直後に言った 一言 ( ひとこと ) である。看護師さんはどのように返事をして良いのか分からず、困った顔をしていたが私には母の言っている意味が良く分かった。母はこれまでに何人もの人の ( しも ) の世話をし、いわゆる死に水を取ってきたのであるが、いよいよ ( しも ) の世話する側からされる側になってしまった、と言いたかったのであろう。

母は18歳のとき、次兄を大腸カタルで亡くしており、そのとき下の始末や雑用を一手に引き受けたのが、そのことの最初の経験だったらしい。その後、祖父の兄の娘、三兄の妻、姑、夫の長兄、その妻、自分の2人の子と夫などを次々に看取り、納棺から葬儀まで執り行ってきた。

私が11才の冬、近所の人が学校に来て「父さんが死んだから、すぐに一緒に帰ろう!」という。その人も慌てていたのだろう、座っている私の腕を取って急に立ち上がらせようとするのだ。…が、あまりにも突然のことで状況が理解できない私はその腕を振りほどいてしまった。担任の真家昌男先生に ( さと ) されて始めて席を立ったのであるが、今度はその人のことなど ( ) ( さい ) ( かま ) わず、一人、全力疾走で家に帰った。

私の家は貧しかったが建物は2つあった。母屋とは別に父が仕事場にしている自転車の修理組み立て工房があり、そちらのほうで父は寝起きをしていた。朝になっても、なかなか起きて来ないので母が行ってみると寝床の中で息絶えていた。その工房に私がゼーゼーいいながら駆け込んだときには既に何人かの人が集まっていた。それからの一部始終を11歳の私は見ていた。

まず皆が話し合って葬儀の段取りをつけようとするのであるが、これがなかなか決まらない。そのうち診療所の 謝花 ( しゃばな ) 先生が来て心臓麻痺との死亡診断書を書いてくれた。少し時間か経って今度は駐在所のお巡りさんが来た。 謝花 ( しゃばな ) 先生と言葉を交わしたり周りの人に尋ねたりしている。事件性を調べたらしい。その後、湯灌をするために父は裸にされた。ちんちんが縮こまっていたのをいやにはっきりと覚えている。白装束に着せ替えてからお棺に入れようとして皆は大変なことに気がついた。息絶えてから時間が経ち過ぎているので死後硬直を起し、お棺に入らないのだ。すかさず近くに住む ( てる ) さんという ( あや ) しげな在家のお坊さん(お彼岸やお盆などの簡単な法事で小銭を貰っていた)が自信ありげに「私が拝めば体が柔らかくなるから」といって読経を始めた。だが小一時間たっても一向に柔らかくなる気配はない。誰かが「温めれば柔らかくなるのでは」と言った。湯灌のやり直しである。もう一度裸にした父を甥の羽生義直さんと白田仲さんが泣きながら拭き始めた。「審ちゃん、熱くないよな、死んじゃってんだもんな!」といいながら 火傷 ( やけど ) をするほど熱いお湯に浸した手ぬぐいで父の手足の関節を何遍も何遍も温めてくれた。自分の涙もその手ぬぐいで拭きながら…。

このような甥達の心のこもった徹底的な湯灌のお陰で、やっと父は納棺された。

ここで最近読んだ「納官夫日記」(青木新門著 文春文庫)のことを示したい。この本の著者はある典礼葬祭会社の社員で「納棺夫」とはこの人の造語であるらしい。そして、その「納棺夫」は交通事故でばらばらになった肉塊を拾い集めたり、 ( ふく ) れ上がった水死人のガスを抜いて体裁を整えたり、死体を引取りに来ない親族を説得に行ったり、およそ人の嫌がることを自らの意志でするのだ。良い方の意味でとても人間とは思えず、神か仏そのもののように私には思える。私が今までに読んだ如何なる哲学書よりも易しく、分かりやすく、しかも大胆にその真髄に触れているので是非お読みいただきたい。

現在は身内の者が納棺をするということがなくなってしまった。その前の段階である終末介護もこれからは益々他人任せになっていくであろう。その方が合理的であるからなのであろうが、そのために失うことの大きさも考えてもらいたい。私を始め以前の子供たちはそれらによって命の教育を受けたのである。

教育や保健衛生などの日本の社会システムは総じて向上しているが、欠陥は修復して行かなければならない。

私の妹は老人施設で介護の仕事をしており、自分の母親の介護をしたくてもできない状態にある。そういう社会システムが良いとは私には思えない。ひどいとも思わないが最善の策でないことは確かである。このような場合、北欧などでは特別な措置がとられているという。日本も早くそうなって欲しい。子が親に尽したい、万分の一でも恩返しをしたいという気持ちはごく自然で当たり前のことなのだから。

前述の葬儀の段取りを皆で話し合った結果だが、本家の菩提寺の三光院は値段が高過ぎて折り合いが合わず、旧制中学で父と同級生だった鳥栖山教円寺の住職、村田 ( けん ) ( りょう ) 氏が格別の計らいで執り行ってくれた。

あれから半世紀近くの月日が流れた現在、三光院は檀家の数が随分減ってしまったと聞く。教円寺の方は2004124日に稚児行列や露天商が見られるほど盛大な本堂落慶法要が行われ、近郷近在で最も大きく、立派な寺院に発展した。ちなみに、ご住職の村田 ( さとる ) 氏は妹ひろ子の中学高校に渡っての同級生である。

我が父は四十七まで生きて死に 母九十四まで死にて生きけり

安正

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