「もじわざ」

誰が最初に言ったのか、「歌は世につれ、世は歌につれ」と、巧いことを言いますね。この場合の「歌」は流行歌と考えるのが一般的でありましょう。でも、よく考えてみると短歌も…、いや、短歌こそが当てはまるとは思いませんか。俵万智さんの、話し言葉やカタカナ言葉の入った作品を読むと、そう思えてなりません。これらの現代短歌を、あの全部漢字で書かれた万葉歌を基点として考えてみると、よくもここまで時代と共に変遷してきたものだと、つくづく思います。

同じように古くから庶民に愛された短詩形のものに、ことわざや ( けい ) ( ) といわれるものがあります。これらも生活に密接にかかわっていますから、世の中にしっかりと根を伸ばして枝を張り、宇宙時代やIT時代になっても決して ( すた ) れません。それどころか益々幹は太くなり、時流に乗って、巧みにリメイクされたり新しいものができたりしています。そして新聞や放送などでも良きにつけ悪しきにつけて取り上げられ、学校や家庭でもよく話題にされます。

それらを少し拾い上げてみましょう。

なんと言っても話題になるのは「情けは人のためならず」でありましょう。情けをかけると、その人のためにならないから、かけないほうが良い、との解釈が当り前のようになってしまいました。「一姫二太郎」や日常語の「気が置けない」は、揺れ動いていて定まりません。また同じく「鳥肌が立つ」は、すでに ( ) ( ぎゃく ) の意味で使われています。

「衣食足りて礼節を知る」はむしろ「衣食足りて礼節を知らず」の時代になりました。「貧すれば鈍する」も「富すれば鈍する」に世の中が変わってしまいました。「夜郎自大」は「野郎時代」というべきかもしれません。「正直の頭に神宿る」は「正直の頭に貧乏神宿る」、「石の上にも三年」は「意志の疎通も三年」、「人のうわさも75日」は「人のうわさも15日」にアレンジした方が時代に則しているでしょう。アレンジと言うよりパロディーと言えるでしょうか。言い古されたことわざに新しい解釈や「もじり」を加えて、リメイクやパロディー化したものを私は「もじりことわざ」、省略して「もじわざ」と言って楽しんでいます。

不思議なことに、この「もじわざ」を楽しんでいると、いつの間にか本当の「ことわざ」と入れ替わってしまう現象が見られます。かつて「ウソも100回つけば本当になる」と言った方がおりますが、ことわざや四字熟語も同じことかもしれません。

「人間万事塞翁が」は一時、井上ひさし氏の「人間万事塞翁が 丙午 ( ひのえうま ) 」と入れ替わりそうな勢いでした。「危機一髪」は映画「007」で使われてから「危機一発」に入れ替わったと言えるでしょうか。

ことわざの曲解が言われるようになってから久しいのですが、曲解が新解になり、新解が正解になるのは時間の問題と思われます。ですから「もじわざ」は時代の流れに先行し、行き先を指し示すものと言えるかもしれません。

「赤信号、みんなで渡ればこわくない」など、私は都合良く使っております。使いたい方はくれぐれも「自己中と自己中どうし事故中だ」などと、ならないようにしてくださいね。

毎年12月に発表される(株)ユーキャンの「流行語大賞」や住友生命の「創作四字熟語」のコンテスト作品を目安にすると面白いですよ。

参考

情けは人の為ならず

情けを人にかけるのは、その人の為になるだけではありません。人に情けをかけておけば、いつか巡り巡って自分によい報いが返ってきます。善行は結局、自分にも返ってくるものですから、人には親切にしましょう。

一姫二太郎

子供を持つなら、最初に女で二番目に男であるのが、育てやすくて理想的な順序です。子供の数ではありません。

気が置けない

遠慮がなく、心から打ち解けることができること。気を許せない、油断ができないの意に用いることは間違いです。

鳥肌が立つ

 そもそも嫌悪感に対して使います。たしかに感動して「鳥肌が立つ」という生理現象もあるでしょうが「バイオリンの音に鳥肌が立った」などというと「歯ぎしりのような音だったのか」といぶかってしまいます。

夜郎自大

自分の力量もわきまえず、仲間の中でいばること。

山河風狂

たらちねの

人は三度生まれ、三度死ぬ

魔界、そして非情な世界

私だけの秋の七草

「欠点が魅力なんですよ」

初級中国語の考察

宇宙と人間の法則

なぞとき地名人名考

音楽はサムシンググレート〜

ゾウさんとアリさん

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