戦後日本の変節
はじめに
どうしようもない無知と鈍感も金のためなら、すぐ動く。逆に知と団結も金の力で切り崩せる。方向は逆であっても金ならば、どちらの強靭さにも勝てるのだ。信長・秀吉の時代から不変であるこの力学は現代でこそ巧みに使われる。
池田隼人は覚醒した知と団結を押さえ込むために、高額所得で政治を目隠ししてしまうことを思いつく。経済的には覚醒剤、政治的には催眠剤を飲まされ人々は馬車馬のごとく働き、気分良く酩酊しまう。繰り返し飲んだ薬剤は脳や体を犯し、半身不随に陥ってしまった。ここで目覚めなければ、もう死ぬかもしれない。
「良い映画は良い観客が創る」と山田洋次監督はいう。さしずめ、「良い政治は良い民衆が創る」ということか。すなわち、政治が悪いのは政治家のせいではない。
我々より若い政治家が国策を「逆コース」化させることを見るにつけ思うことは、もっと若い人たちに思いを託すことしか方法がないということである。
日本国憲法解釈の変節
日本国憲法は1947年(昭和22年)5月3日、私が生まれた年に
同級生はみな「憲法の子」たちですから、
この日本国憲法には第二次世界大戦への深い反省が込められています。日本は第二次世界大戦で約310万人もの犠牲者を出したうえ、他の国々にも大きな犠牲を
1 戦争の放棄
日本に続いて1949年、中米のコスタリカが、1972年にはお隣のパナマも「戦争を放棄し、戦力を保持しない」という国になりました。その後、同様の国がどんどん増えることを願っていたのですが、逆に2004年、日本は国際紛争を解決する手段として戦力を保持する自衛隊をイラクに派遣してしまいました。
戦争には(1)侵略戦争(2)侵略に対する抵抗戦争(3)侵略者同士の分捕り合戦の3つの形があります。アジア太平洋戦争において、日本とアジア諸国は(1)と(2)の関係であり、日本対アメリカは(3)でありました。
憲法第9条に戦争の種類は書いてありません。そこで、(1)や(3)は許されないが(2)は許される、との考えから自衛隊が発足したのです(1950年7月、自衛隊の前身である警察予備隊が創設され、当時の流行語で「逆コース」と呼ばれた)。それ以前、戦争は完全否定で(2)もいけないとされていました。
今では信じにくいことですが、1946年6月28日の衆議院本会議で日本共産党の野坂参三が日本国憲法草案第9条について「侵略戦争は正しくないが、侵略された国が自国を守る戦争は正しいのではないか」と質問しました。これに対して吉田茂首相は「近年の戦争の多くが国家防衛権の名に於いて行われたことは顕著なる事実であり、正当防衛や国家の防衛権に依る戦争を認めるということは戦争を誘発する有害な考えである」と答弁をしました。これに対して議事堂内から大きな拍手が湧き上がったのです。戦後1年のこの時期は「国を守るという意識が戦争を引き起こすのだ」という考えを国民が持っていたことになるのでしょう。このことはニュース映画にも記録されています。
侵略戦争は犯罪であるという考え方は、第二次世界大戦以前から世界的に徐々に定着し、戦後になると国連憲章にも明記されました。にもかかわらず、アメリカは国連を無視して石油欲しさにイラクに侵攻しました。いろいろな理由をつけていますが、どう見てもこれは侵略戦争ではないでしょうか。
それなのに、国民の大多数に支持されたとする小泉首相が決定を下し、日本はアメリカの荷担をしてしまいました。やはり、いろいろな理由をつけていますが、どのような理由をつけても戦略的にはアメリカ軍の後方支援をしたことになってしまうでしょう。
このことで日本は大嘘つきの犯罪国家になり下がってしまいました。トルコやアラブの人たちは日露戦争以来、子供たちにジャポンヤ(日本)と命名するほど日本
それにこのことによって新宿などの高層ビルが攻撃をされる懸念もでてきてしまいました。アメリカはテロといっていますが、イラクにとっては(2)なのですからゲリラ戦でありましょう。日本は憲法第9条に(2)を認める解釈をしてしまったのですから、東京都心が戦場になっても不思議ではありません。
2 基本的人権
一方、国民主権の根幹である基本的人権の尊重とは、日本国民一人ひとりに自由と幸福追求の権利があるということです。自由には身体の自由、経済活動の自由などと共に最も大切な精神(内面・心)の自由があります。これには数々の宗教戦争や反戦活動への残酷な仕打ちへの反省から、思想、良心、信教、集会結社、表現、批判意見の自由などが取り入れられました。ところが現在テロ対策のためと称し、考えただけ、計画しただけで罪となる法律ができようとしています。
幸福追求の権利は25条の生存権(社会権・生活権)において文化的最低生活の保障をしています。ところがこれも小泉政権が郵政民営化法案の影に隠して殆ど議論無しで成立させた「障害者自立支援法」などで、なし崩し的に奪われようとしています。また、後で述べる「ワーキング=プア」の問題も政策上の当然の結果として出てきてしまいました。
3 象徴天皇制
日本国憲法は法のもとの平等と共に、象徴天皇制を民主主義とは矛盾しないものと考えています。天皇は憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する
明治から戦前にかけては天皇が大きな政治的権力を持っていました。日本の長い歴史を見ると、それは例外的なことで、それ以前の文化的、精神的な存在であった時代の方が圧倒的に長いのです。つまり、戦後の象徴天皇制は、むしろ前近代の天皇制に戻った、と考えられるでしょう。英国のように女性の方が似合うのかもしれません。
4 GHQの残した問題
この戦後の日本を規定した日本国憲法の草案は、よく知られているように連合国総司令部(GHQ)が作りました。このGHQは最初で述べた日本が多大な犠牲を強いた国々が連合して作った占領政策の中央管理機構とされています。しかし実質的にはアメリカのみが実権を持ったもので、マッカーサーが最高司令官でした。ゆえにアメリカの都合を優先して立法を
日本国憲法はアメリカから強引に押し付けられたもので、日本人の考えが入ってないから良くないというわけです。しかしそれ以前、日本にも自由民権運動や大正デモクラシーなどの民主主義を目指した長い運動の歴史がありました。いばらき新聞など、地方紙の多くはそのころの啓蒙活動の結果として残されているものです。すなわち、民主主義は戦後になって初めてアメリカから教えられたものではありません。
日本国憲法も下地になったのはGHQ案でしたが、それ以外に官民を含めて20種類もの草案が作られています。特に民間の「憲法研究会」のものはGHQにも感銘を与え、英語に翻訳されて参考にされました。これを起草した鈴木安蔵は自由民権運動家たちの作成した憲法草案を研究し、参考にしていたわけですから、日本国憲法の根幹には自由民権運動の思想が受け継がれ、盛り込まれ、流れ込んでいるわけです。
さらに国会で付加修正された条文もあります。25条の「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有す」は新しく付け加えられたもので、26条の義務教育の範囲は初等教育(小学校だけ)から普通教育(小中学校)に変えられました。
5 権利の主張
このように、私達は世界最高レベルの権利を保障する日本国憲法を持っています。しかし、法律学は「権利の上に眠る者の権利は保障されない」と
価値観の変節
さて次に、戦後の日本人の価値観を見てみましょう。戦後の日本人の価値観も憲法の解釈と同様、大きく変節しました。季節の変化になぞらえて春(政治の季節)、夏(経済の季節)、秋(文化の季節)、冬(これからの季節)の4つに分けて考えてみましょう。
変節とは守ってきた節義を変えること、それまでの自分の信念・主義・主張などを変えることですが、季節が変わることから派生した意味なのかもしれません。
1 春(政治の季節)
アジア太平洋戦争中に日本の殆どの都市はアメリカ軍の空襲を受けて焼け野原になってしまいました。人々は焼け跡で食料や衣服にも困りながら、新しい日本をどのような方向に進めて行くかということを真剣に考え始めます。ある人たちはアメリカの民主主義の形を理想と考え、もう一方には当時のソビエト連邦などの社会主義・共産主義を理想と考える人たちもおりました。そのため、
そのような中で1951年(昭和26年)、占領終結のためのサンフランシスコ講和条約と、アメリカ軍の駐留を認める日米安全保障条約が結ばれました。サンフランシスコ講和条約は(3)をしたもの同士の仲直り(単独講和)であって、大切なことは(2)に対する賠償責任(全面講和)ではないか、との意見もありましたが国会で承認されました。ところが、日米安全保障条約は国会を無視した吉田首相とアイゼンハワー大統領との秘密協約だったのです。
このように、終戦の年1945年(昭和20年)から1960年(昭和35年)までは政治の季節で、人々は何よりも政治的理想を高く
2 夏(経済の季節)
1960年(昭和35年)に発足した池田隼人内閣は、このように分裂した人々をまとめるためには経済的繁栄が必要である、という方向を指し示しました。1970年までの10年間に国民総生産を倍増させるという所得倍増計画です。綿密なシナリオを描いたのは戦前から貧困問題にたずさわってきた大蔵官僚の
そうなると人々は政治的信念など、どうでも良くなり、目先の欲しい物を争って手に入れようとするようになってしまいます。電気洗濯機や電気掃除機を使い、電気冷蔵庫の中の物を食べ、白黒テレビを見て団地に住む、ということに価値を見いだしていくのです。そのことは、自分の家庭だけを大切にしようとする、いわゆるマイホーム主義へとつながっていきました。その後、カラーテレビ、電話、乗用車などを持ち、マンションや一軒家に住むことへと上昇していくにしたがって、その傾向は益々強まっていきます。
しかし、急激な経済成長は数多くの社会問題を引き起こしました。各種公害(4大公害病)や大学などに残る古い体質、繁栄を牽引したベトナム戦争の泥沼化などです。これらのことに強く反発したのは戦後のベビーブームに生まれた、いわゆる団塊の世代の人たちでした。新しい教育を受けたこの世代はアメリカで起った反戦運動などからも影響を受け、大学紛争という形でアピールを繰り返していきます。また力に頼らず、反戦フォークソングや歌声平和運動を展開する若者も現れますが、いずれにしてもマイホーム主義の大人たちは知らんふりでした。挫折した若者の中で放浪の末、離島に住んだり、外国に行ってまで放浪を続けるヒッピーと呼ばれる人々が現れたのもこのころのことです。
このように1960年(昭和35年)から1970年代前半までは、それまでの政治的理想に替わって、経済的繁栄という新な夢が追い求められます。しかし若者たちによって、それだけで良いのか、という疑問が投げかけられた季節でもありました。
3 秋(文化の季節)
1973年(昭和48年)10月、エジプトやアラブ諸国とイスラエルの間で第4次中東戦争が
80年代後半には株価や地価が信じられないほど上昇し、バブル経済と言われる状態になります。そのバブルが
これらの人工的な環境の中で育った若者達は個人的な趣味の世界などに閉じこもり、働くことが嫌になりました。団塊の世代のように社会と係わることもしません。それどころか現実的なものをキタナイ、ダサイと言って排除し、虚構の世界に価値を見出すようになっていきます。オタク・フリーター・ニート・パラサイト=シングルなどの登場です。
このように1970年代後半からの高度成長後の時代は目まぐるしく変化する文化の季節でありました。
4 冬(これからの季節)
最後に、これからのことを考えてみる必要があります。生まれつき豊かな社会に育った現代の若い世代は、既成の価値観を排除するようになってしまいました。「なぜ、人前で化粧をしたり、物を食べたりしてはいけないのか」、「なぜ、人をいじめてはいけないか」、そして「なぜ、人を殺してはいけないのか」など、人間として最も基本的な倫理観も、説明をしなければ解ってもらえないようになりつつあります。閉じこもりは「引きこもり」となって社会問題化するようになりました。晩婚化は究極になり、一生未婚の人が増えています。その上、文明の暴走は自然現象さえも「変節」させるようになってしまいました。
こうした
反面、冒頭で述べたコスタリカの民主主義・平和主義は近隣諸国にまで影響を与えています。チリのリカルド=ラゴス大統領やドミニカのラファエル=ドミンゲス大統領はコスタリカで学んだ方たちです。同じ平和憲法を持つ日本はどうするべきなのでしょう。
これらの問題は、いずれも綿密な考察と共に100年以上の長いスパンで解決していくしか方法はありません。それなのに、このような重要な事柄を総合的に学べる学問分野も大学もないのです。不思議でなりません。歴史学は勿論、政治学も経済学も含めた社会科学はそのためにあるものではありませんか。これらを総合的に生かした『総合未来学』ともいうべきカテゴリーを打ち立てて発展充実させ、しかも実行を伴うものにしていくことが是非、必要です。
その前に何よりも、人と人との関係をどう取り結んでいくか、そのための新しい倫理観をどのようにして打ち立てて行くかということを模索していかなければならないでしょう。
これから、どのような未来社会を創造していくのか、現代の若者ひとり一人に大きな問いが投げかけられています。
追記
日本で唯一、北陸大学(金沢市)に『未来創造学部』があるそうです。
おわりに
書き尽くせない部分が多々ありました。参考文献を示しますので読んでみて下さい。
『一日一文』英知のことば
木田元 岩波書店 2004年
(抜粋)
愚かさは悪よりもはるかに危険な善の敵である。悪に対しては抗議することができる。それを暴露し、万一の場合には、これを力ずくで妨害することもできる。悪は、少なくとも人間の中に不快さを残していくことによって、いつも自己解体の萌芽をひそませている。愚かさに対してはどうしようもない。
(ボンヘッファー『十年後』E・ベートゲ編『ボンへッファー獄中書簡集』村上伸訳、新教出版社、1988年)
ボンヘッファー:ドイツの牧師・神学者。告白教会を拠点にナチスに対する抵抗運動を展開、1943年に逮捕され、のち刑死した。(1906.2.4.~1945.4.9)
自由は置物のようにそこに
(丸山真男『日本の思想』岩波新書1961年、「『である』ことと『する』こと」)
丸山真男:政治思想史学者。大阪府生まれ。東大法学部卒、同教授。日本の政治学を学問として確立し、戦後日本の民主主義思想を主導した。『日本政治思想史研究』『現代政治の思想と行動』『日本の思想』など。(1914.3.22~1996.8.15)
自由は自由であって平等ではなく、公正ではなく、正義ではなく、人類の幸福ではなく、また良心の平静ではない。もしもわたくし自身の自由、あるいは自分の階級、自分の国民の自由が、他の多数の人間の悲惨な状態にもとづくものであるとするならば、この自由を増進する組織は不正であり、不道徳である。
(バーリン『自由論』生松敬三訳、みすず書房、1971年「二つの自由概念」)
バーリン:ラトヴィア出身のイギリスの政治哲学者・歴史家。強制のない状態としての消極的自由に対し、理性的自我を実現することを真の自由であるとした。自由主義の立場から歴史的決定論を批判。『自由論』ほか。(1909.6.6.~1997.11.5)
人間は自由である。人間は自由そのものである。もし……神が存在しないとすれば、われわれは自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。……われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。
(サルトル『サルトル全集』第十三巻、人文書院、1963年『実存主義とは何か』)
サルトル:フランスの文学者・哲学者。第二次世界大戦中、抵抗運動に参加。戦後、実存主義を唱道し、雑誌『現代』を主宰した。小説『嘔吐』『自由への道』、戯曲『蠅』『アルトナの幽閉者』、哲学書『存在と無』など。(1905.6.21.~1980.4.15)
『軍隊のない国家』27の国々と日々と
前田朗 日本評論社 2008年4月
(抜粋)
2007年3月6 日、来日中のモラレスボリビア大統領は、阿倍晋三首相(当時)との会談において、「現在進めている憲法改正において、戦争放棄を盛り込みたいと説明した」という。首相は何も返答しなかったようだ。
軍隊のない国家を数えるためには、国家とは何か、軍隊とは何かの定義が定まっていなければならない。定義いかんによっては、コスタリカにも軍隊があるのではないかといった疑問が提起されることもある。
自衛隊が事実上の軍隊であるにもかかわらず「憲法上の軍隊ではないが、国際法上は軍隊である」などとされる日本の状況は特殊であり、論外であるにしても、実は諸外国においても軍隊とは何かの定義が明確なわけではない。
93歳ジャーナリストの発言『戦争絶滅へ、人間復活へ』
むのたけじ 聞き手黒岩比佐子 岩波新書1140
(この文章は東洋英和女学院高等部に進学した歴史の大好きな