戦争屋と「そういうもの」

 前著「山河風狂」の『戦いを勝ち抜くか、人道を貫くか』のなかでは、戦いを勝ち抜く側の最後に戦争屋を、人道を貫く側の最後に「そういうもの」を置いています。

しばしの時がたち、この別人類ともいうべき相反する人たちのことについては、もっと詳しく個別的に取り上げるべき、と思うようになりました。

一見すると戦争屋は歴史的人物だけで、身近には居ないように思えますが、そうとも、言えません。私の周りには、イラクなんか原爆を落としちゃえばいいんだ、とか、北朝鮮は今のうちに兵糧攻めにすれば簡単だ、などと言っている友人が複数いるのです。しかも、その数が段々増えてきているような気がしてなりません。日本社会が閉塞化するに従って個々人の思考も投げやりというか、プッツン状態になるのでしょう。このプッツン状態になった人たちが、いわゆる戦争屋をかつぎ上げることは歴史的に証明されています。

一方、「そういうもの」の側もレンズを通した光のように ( しゅう ) ( れん ) していかねばなりません。塩の行進に参加した「そういうもの」の代表者がガンディーだったわけですから。

この文章では、戦争屋については身近な人を取り上げても底が浅くなってしまうので、歴史的な人物を示し、「そういうもの」については『戦いを勝ち抜くか、人道を貫くか』で名立たる人物を取り上げたので、身近な人を描いてみようと思います。

戦争屋と呼ばれる人たち

戦争屋という言葉は広辞苑を始めとする国語辞典にはありません。英語の辞典にはWarmongerという複合語があります。 warはもちろん戦争、mongerは(つまらない・くだらないことに)忙しく立ち回る人という意味ですから戦争屋と訳されます。

日本人には、目の前にあるものを無視することで無いことにしてしまう、という特技があります。また、言葉を置き変えることで本質をごまかす技に ( ) けている、とも言わざるを得ません。

日本には立派な軍隊があるのですが、それは自衛隊であって軍隊ではない、と言い ( くる ) めます。しかし国際的認識では日本軍も戦争屋も存在しております。ごまかしは効きません。

1人と100万人

1人を殺せば犯罪者だが100万人を殺せば英雄、

民衆を殺戮する優秀な兵器の発明者は祝福される。

銃器・地雷・魚雷・爆弾・ナパーム弾・軍用車・軍用機

ミサイル・核兵器・軍事衛星等の製造が基幹産業の国がある。

国とは何か、目に見えるのか、手で触れるか、どこにあるのか。

それは組織だという。組織にはルールがあり、多数決で運営される。

多数決による組織的行動は最善であるとの考えで戦争は行われてきた。

組織とは人の集合体であるが人ではない。 ( ゆえに ) 人でなしが代表になりがちだ。

アメリカ空軍少佐のカーチス=ルメイはルーズベルト大統領の命令により東京大空襲の作戦を次のように立案する。

◆木と紙でできている日本家屋を壊滅させ、住民を殲滅するには瞬発力のある爆弾よりも持続力のある焼夷弾の方が効果的である。加えて、屋根を貫通させ、室内で拡散させる方法を日本家屋セットで研究実験し、より効率化を図るべきであろう。

 ◆江戸時代の大火事を調べた結果、大半は3月上旬に集中していることが分った。ゆえに、この時期の深夜0時に空爆を開始すれば最も効果的であろう。

◆まず目標地域の外周を囲むように攻撃、次にX状に攻撃し、火の壁で住民を囲い込み、退路を断つ方法が、より効率的である。

 ◆日本軍は既に反撃能力が皆無ゆえ、できるだけ低空飛行で命中率を良くし、通常兵器を取り払ってでも焼夷弾を多く積み込んだ方が良い。

310日の陸軍記念日を選ぶことにより精神的ダメージを与えることができる。

 結果。

1945392230警戒警報発令、2機のB29が東京上空へ偵察飛行。

310008第一弾が投下されたが東部軍管区司令部は気がつかず空襲警報も無い。015空襲警報発令、それから約二時間半にわたって波状絨毯爆撃が行われる。

平均6d以上の焼夷弾を搭載した344機のB29の大群が、房総半島沖合から低高度で東京下町に浸入し、高性能焼夷弾を投下して四方に火の壁を作り、住民を炎の中に閉じ込めて逃げ道を断った。

その後、次々と約38万発(1,800d1u当たり3発)もの焼夷弾が投下され、逃げ惑う住民には超低空飛行の爆撃機から機銃掃射が浴びせられた。

当夜は低気圧の通過に伴って強い北西風が吹いていたため、この強風と火災による上昇気流が重なり、火災の煙は高度7,000bまで達した。そして台風と同じ勢い(秒速20b)の炎が吹き荒れ、人々は家々もろとも、完全に焼き尽くされた。

昭和20310日、この大空襲で10万人以上が犠牲になり、焼失家屋は約278千戸に及び、東京の3分の1以上の面積が焼失した。近くに流れる荒川・隅田川は、熱さから逃れるため、水を求めて飛び込んだ人々の溺死体・焼死体で、川面が溢れていたという。

この新しい壊滅殲滅作戦の成功に味をしめたアメリカ軍は、その後、日本の主要都市に次々と同様の空爆を行う。

2日後の312日には名古屋、14日大阪、17日神戸、19,20の両日再び名古屋、29日北九州へ。

翌月413日には東京の山の手へ、15日は東京・横浜・川崎と大都市への連続夜間空襲を成功させる。

5月に入ってからは14日早朝に480機が名古屋北部市街地へ、17日未明には466機が名古屋南部市街地へと大規模な焼夷弾空襲を行なった。名古屋城は14日の攻撃で炎に包まれ、その姿を消していった。東京にもしつこく、24日未明に南部市街地、翌25日深夜から26日未明にかけて都心方面への空襲があった。29日には白昼堂々と横浜と川崎が襲われた。

6月になると、すべて白昼、新型焼夷弾による空襲が行われた。1日大阪市街地、5日神戸市街地、 7日大阪市街地、15日大阪・尼崎市街地へ。

そして86日広島、9日長崎の原子爆弾投下もルメイが責任者として指揮をした。

一夜にして10万の市民を焼き殺した東京大空襲は、その用意周到さと残虐さにおいて、歴史の名によって裁かれなければならない。

広島・長崎への原爆投下は、ソ連に対して威力を見せつけ、恫喝し牽制することだけのために行われた。「早期終戦を迎え、100万人の米兵の命が救われた」とする、いわゆる「原爆神話」は御用学者の作り事である。これは米国の経歴詐称であり、国是であるヒューマニズムに対しての拭いきれない大犯罪であろう。

ルメイ自身、戦後になって次のように言っている。

「もし国際戦犯裁判がアメリカに対して行われたなら、私は拘引され、人道に反する罪で戦犯にされたであろう。ただ幸いにして戦争に勝ったからそうならずにすんだ」

ルメイが立案した作戦、及び新型焼夷弾を使用することについて、米軍指導部では当初、民間人攻撃は国際法に反する、との声が上がっていた。しかし、日本では民間人の居住地区でも軍需物資を作っている。それを考えれば民間人攻撃は戦略上重要なことだ、と押し切ったという。そして、偵察時に航空写真を撮り、空襲後の写真と比べて焼失面積が40lから50lになるように、おおよその目安が決められた。しかし、実情は火に焙られた建物や場所が、分断されて残ったわけであるから、事実上日本の都市は壊滅した。

 キューバ危機勃発時には全面空爆をジョン・F・ケネディ大統領に提案したが却下された。ルメイら空軍首脳部は圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると思っていた。実際にはキューバ危機の時点で、すでにキューバには核ミサイルが数十基配備済みであったから、第三次世界大戦を招きかねない完全な見当違いであった。

ベトナム戦争では空軍参謀長の任にあり、北ベトナムを石器時代に戻してやる、と豪語して北爆を推進した。

ルメイの立場から見れば、その戦略はあくまでも戦争において敵の損失を最大化させるという爆撃部隊における合理性と効率を追求したものであるという。

美術団体創彩会所属の画家 飛彈 ( ひだ ) ( のぶ ) ( ) 氏は静かに、しかし確かな語り口で話し始めた。

310日未明、日暮里の防空壕に避難中、母親が産気づいたんです。まだ3年生の私が母の言う通りに、へその緒を切り、取り上げ、なんとか処置をしました。そのうち防空壕に火が迫ってきました。このままでは蒸し焼きか酸欠になってしまいます。私は生まれたばかりの弟を抱き、母をかばいながら、お寺などの敷地を逃げまどいました。ふっと気がつくと、よれよれになった母と、私と、私に抱かれた生まれたばかりの弟は、上野のお山で呆然としていました。まだ、あちこちで火が燃えさかっていました」

 まるで吉永小百合さんの原爆詩朗読そのままの情景が目に浮かぶ。その吉永さんこそ、昭和20313日、東京生まれである。彼女は自分のことは多くは話さないが、その生まれた日と場所が何よりも雄弁に彼女の信念を物語っている。

 10万人というのは単なる数字ではない。一人ひとりに飛弾さんや吉永さんのような人生があって当然であり、家族があり、物語があったのだ。

 これらのことは動画ウェブページ「YouTube - 東京大空襲の被害の実態を生存者の証言を基に探る」に詳しく出ているので是非、参考にして欲しい。

15年後の19606月、日米安全保障条約の改定をめぐり、激しい反対運動が起きた。この、いわゆる60年安保闘争を「鎮圧」するため、時の首相である岸信介は赤城 ( むね ) ( のり ) 防衛庁長官に、自衛隊の治安維持出動を要請する。赤城長官は自衛隊幹部を招集し、冷静に率直な議論をすることを指示した。殆どの自衛隊幹部は国民に銃口を向けることに反対意見を述べた。赤城長官は「武官の反対を文官が押し切ることはできない」とし、岸氏の自衛隊出動要請を拒否した。

 警察が介入しただけでも樺美智子さんが亡くなっている。2010615日は樺美智子さんの50年忌である。あの日、もし自衛隊が作戦を展開していたなら、犠牲者の数は天安門事件の比では無かったであろう。岸氏は戦時中、上司の東条英機から政治や軍事を学んだゆえ、人の命など、まるで虫けらのもののように思えたのであろうか。危ない、危ない。岸氏の経歴をみると根っ子からの戦争屋である。文民政治は隠れ蓑だったのだ。

その4年後の1964年、ルメイは航空自衛隊創設時の戦術指導に対する功績により、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与された。これは参議院議員で元航空幕僚長源田実と小泉純也防衛庁長官(小泉純一郎元首相の父)からの強力な推薦によるものである。このとき人々は東京オリンピックで沸き立っており、民心を欺くには絶好のタイミングであった。

そして10年後の1974年、このことを指導した佐藤栄作首相は、めでたくノーベル平和賞を受賞する。

それから約 ( ひと ) ( ) ( だい ) の年月が経ち、戦争屋の亡霊の如き、二世三世が連続して首相になる。防衛庁は格上げされて防衛省となり、憲法改正は着々と手筈が整えられ、ついにイラクへの海外派兵をするなど、次々と危なげな政策が推し進められた。それをからかうように、200945日午前11時半、北朝鮮は人工衛星だといって、日本上空を通過し、太平洋に着水する飛翔物体を打ち上げた。日本では各地に迎撃ミサイルが配備され、作動ボタンを押すだけの状態にまでなった。その日たまたま私が滞在していた岩手県の 安比 ( あっぴ ) 高原スキー場は飛翔物体のコース下だったらしく、「落下物を発見した方は絶対に、さわらずに係員にお知らせ下さい」とのアナウンスが頻繁に流された。これだけの騒ぎを、あの「非核三原則を踏襲(×ふしゅう)する」などと言っている方が利用しないはずはないと思った。そうしたら、ついに2009067日、その方はJR吉祥寺駅前での都議選応援演説で言い放った。

「戦うべき時は戦わねばならない。その覚悟を持たなければ、国の安全なんて守れるはずがない」

北朝鮮に対して、制裁強化などで圧力を強める姿勢を強調したかったのであろうが、こうなると、もはや戦後ではなく、戦前の始まりである。

戦争屋は怖い。戦争が始まると余程、良いことがあるのだろう。快楽が待っているに違いない。その為にはどんな些細なことでも利用する。

「一人を騙せば詐欺だが、100万人を騙せば政治だ」

Curtis LeMay (USAF).jpg

カーチス=ルメイCurtis Emerson LeMay

19061115日−1990101日(満83歳没)

生誕地  オハイオ州コロンバス

死没地  カリフォルニア州マーチ空軍基地

所属政体 アメリカ合衆国

所属組織 アメリカ陸軍航空隊 アメリカ陸軍航空軍 アメリカ空軍

軍歴  19281965

最終階級 空軍大将

指揮   空軍参謀総長 戦略航空軍団司令官

戦闘/作戦 第二次世界大戦 ベトナム戦争

賞罰   殊勲十字章 殊勲章 銀星章 陸軍航空十字章 レジオンドヌール勲章

勲一等旭日大綬章

除隊後  副大統領候補

ウィキペディアより

「そういうもの」という方々

本当に、この世界を支えているのは『雨ニモマケズ』の詩の最後に出てくる「そういうもの」という方々、であろう(戦いを勝ち抜くか、人道を貫くか より)。

 私はこれまでの人生の中で何人かの「そういうもの」というべき方々のお世話になり、生きてくることができました。感謝を込めて、その方々の人となりを紹介しましょう。

原 保男 先生

原保男先生は中学2年時の担任で綴り方教育の実践者でした。児童文学者の国分一太郎や「やまびこ学校」の無着成恭の影響を受け、自由教育を ( ) としていたのです。ゆえに、ホームルームや道徳の時間はいつも作文で、原稿用紙は何枚でも自由に使って良いことになっていました。

私は作文が得意でした。1枚当たり4,5分で書けたのです。それもそのはず、朝起きて、顔を洗って、歯を磨いて、自転車を漕いで学校へ来てから帰るまでのことを、洗いざらい書くだけなのですから……。

作文の授業になるといつも10枚以上の原稿用紙を使っていました。あるとき、得意になって書きあげたものを持っていくと、原先生は静かに、おっしゃいます。

「毎日、一生懸命書いているのは分るけど、いったい、何がいいたいのかね。いいたいことがなければ、いわなかったことと同じだよ」

 そんなこと、考えてもみなかった私はとっさに返事ができません。いいたいことが、なかった私は当り前ですが何もいえません。しようがなくて、とりあえず原稿用紙をあずけ、席に引き返してから、よく考えてみました。

「いままで毎日、時間と手間をかけて書いたものは、まったく書かなかったことと同じということかぁ。でもォ、友達同士のおしゃべりでは、その日、あったことを話すよなぁ。おしゃべりと書くことは、どう違うんだろう」

 次の作文からは、私はこう思う、というようなことを書いて試してみました。すると、先生は次から次へと、それに対する質問や反論を赤インクで書いてきます。

「ボクの家は貧乏なので将来、お金持ちになって母を幸せにしてあげたいと思います」

「幸せにするとは具体的にどういうことですか」

「たとえば、ダイヤモンドを買ってあげたいです」

「ダイヤモンドで幸せになると思いますか」

「…………」こちらが反論できなくなれば、その作文はそれで終わりです。

( ぬし ) ( いし ) 神社にお参りにいきました。もったいないと思ったけど、お賽銭を5円あげました」

「なぜ、もったいないと思ったのですか」

「家が貧乏だから」

「それでも、あげた理由はなんですか」

「将来、お金持ちになるには5円ぐらい、神様にあげないと、いうことを聞いてくれないと思ったから」

「では、10円をあげれば2倍早く、あるいは2倍のお金持ちになれるのですか」

「いや、神様だから、タダでも、お願いは聞いてくれるでしょうが、少しはあげたほうが喜ぶと思ったから。でも神様は、お賽銭を何に使うのですか。」

「私も分りません。調べてみたら、どうでしょう」

 実は、このお賽銭問題は原先生の前任地で1冊の文集にまとめられていました。調べもしないでクラブ活動のテニスばかりしていた私は、その文集を読んでびっくりしました。そこにはクラス全体が家庭をも巻き込んで論争したあげく、誰のため、何のためのお賽銭かを社務所にまで尋ねに行ったので、父兄から原先生への批判が出ていることまでが何人もの手によって書かれていました。

 原先生は、まったく問題意識を持たない私やクラスメイトに対して、ずいぶん我慢をしていたのでしょう。それに比べて前任地の子供たちの鋭さと行動力、とうとう我慢ができなくなって、この文集を見せてくれたに違いありません。

 この文集を読んだ私たちはどうなったでしょうか。何も変わりません。私は相変わらずテニスに明け暮れ、私たちは相も変わらぬ作文を書いていました。

 「世界の平和と人類の幸福」が口ぐせだった原先生は、 ( みんな ) の大切な思い出になるから、学芸会には『原爆の子』を上演しよう、といいました。 ( ほか ) のクラスでは『やじきた珍道中』とか歌謡コーラスをやるというのに、私たちのやるものは『原爆の子』、しかも、上演だという。

 『原爆の子』は学級文庫の中の一冊でした。学級文庫とは原稿用紙と同じように、学級費で揃えた何冊かの本のことですが、多くは原先生自前のものです。

大関松三郎の詩集『山芋』・石川啄木の短歌集『一握の砂』・峠三吉の原爆詩集『人間をかえせ』・戦没学生の遺稿集『きけわだつみの声』・上記の『やまびこ学校』それに国分一太郎の児童文学書などがありました。それらのうち『原爆の子』は詩集でも文集でもなく、劇の台本、つまり戯曲という珍しい分野の一冊なのです。

 私は最初、お父さん役で、ちょっとだけ出るはずだったのですが、けっきょく、主役の少年をやることになってしまいました。暗く悲しく ( みじ ) めな生活の中、なお差し迫る不幸に立ち向かっていく、という大変な ( やく ) ( どころ ) です。決して良い出来ではなかったのですが、1つのプロジェクトを計画し、実行することの難しさ、そして充実感を、初めて知ることができました。今では、先生のいったとおり、良い思い出になっています。

 ベートーベンの「運命」を始めとするクラシックも、初めて原先生に聴かせていただきました。この世には芸術音楽がある、ということを知り得たのは先生のお陰です。

そして何よりも「雨ニモマケズ」を教えてくれたのが原先生でした。先生はクラス全員が暗唱できるようになるまで、毎日、何べんも口ずさんでくれます。皆も指でなぞって、数えきれないほど音読したので、学級文庫の『雨ニモマケズ』は真っ黒になってしまい、しまいには、ボロボロになってしまいました。

お陰さまで私は、壁に突き当たったとき、やる気がなくなったとき、もうダメと思ったとき、逆に慢心したとき、そして何よりも順風満帆のとき、つまり日常の、そこここで、まるで食べるがごとく、「雨ニモマケズ」を口にして生きてきました。もちろん、今でも、いつでもどこでも、スラスラと暗唱することができます。

このことが、これまでの私の人生を、どれほど豊かにしてくれ、満足させてくれたか、到底いいつくすことができません。

私にとってのダイヤモンドですね!

私の精神構造の基礎は原保男先生に築いていただいたのです。

          雨ニモマケズ        宮沢賢治

雨にも負けず 風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫な身体を持ち

欲はなく決して いからず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを自分を勘定に入れずに

よく見聞きし 分かり そして忘れず

野原の松の林の蔭の

小さな萱葺きの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行って怖がらなくてもいいと言い

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろと言い

日照りのときは涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

皆にデクノボーと呼ばれ

ほめられもせず 苦にもされず

そういうものに 私はなりたい

制作 グラスアートセイ

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