風信

Prologue

風神(ふうじん)は大きな袋から風を吹き出す風の神、というのが日本の寓話だが、中国の神話では、風神(ふうしん)は ( ) ( ほう ) を支配する ( ほう ) ( てい ) という神に付き添う使者であり、東西南北それぞれの区域を分担して、お告げを伝え広める役割を持っている。直接には、この風神がその地域に関するあらゆることを支配するわけで、そこから風という字を伴う諸々の言葉が発生した。

風土――風神が支配する地域

風教――その地の人民に対する教え

風俗――その教えに人民が従って生活する習俗の形態

風格――ひとり一人の個人の心情

風邪 ( ふうじゃ ) ・風疹――病気も風神の ( おぼ ) し召し

このように多くのものが風神に支配され、風という字を付けて表されるようになった。

幸福の選択

株の仲買人をやっていたゴーギャンは、あるとき突然、不可思議な疑問を持つ。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

 この問いの答えを求め、彼は何度も住いを変え、さ迷ったあげく、タヒチ島に落ち着く。そしてその風景と人物を描き続けた。

 この問いは人間の存在に対する根源的なものであり、全ての人類の永遠の課題である、と思うのだが、まったく気にならず平然としている人も多い。かと思えば前途有望な若者を簡単に死に至らしめる難問でもある。

 ゴーギャンは裕福な生活や家族を捨ててまで、この問題に真っ向から立ち向かった。が、それで彼は心から幸せだったのか。まったく気にせず、元の証券マンでいたほうが幸せだったのではなかったか。

 この問いの答えを求め、哲学者は倫理で、芸術家は作品で、宗教人は信仰で、歴史家は史料で、人心の奥底を探検し、隠された部分を発見しようとする。

はたまた答えを求め、物理学者は宇宙をさぐり、化学者は生命の成り立ちを考え、医学者は脳の仕組みを解き明かし、生物学者はDNAを解読し、その結果を示す。

しかしながらそれらは、この問いに対し、何の回答にもなっていないものが殆どだ。それでも真摯な姿勢で立ち向かい、求め続けるなら良い。

生活の方便であったり、研究費をごまかしたり、そして何よりも、この問い対して、まったく無頓着で平然としていたりする方は、その職を返上するべきであろう。

それだけの能力を使えば、他に幸福になる道は幾らでもあるのだから。

流れ行く宇宙の中の自己の位置 時・場所・光求め続けん  安正

( もう ) ( ) 利他 ( りた )

( もう ) ( ) 利他 ( りた ) 」は、わたしの生きる信条になっています。

「己を忘れ他を利するものは慈悲の極みなり」

自分の幸せだけを考えない。自分の利益だけを考えるような生き方はしない。自分の生きていることが人の幸せにつながるよう、自分を犠牲にして他の幸福のために奉仕する。

そういう生き方をしてこそ、わたしたちは本当に生きているという、生きる喜びにつながるのだと思います。(『生きることば あなたへ』光文社 222頁)

――と瀬戸内寂聴さんは述べている。――が。

 山の手線、電車内でのこと。

目の前で、制服を着た2人の小学2,3年生ぐらいの女の子が楽しそうにおしゃべりをしている。隣の席が空いた。

「どうぞ」

「そちらこそ、どうぞ」

その大人びた言い方と譲り合う仕草が何とも可愛らしい。私は思わず少し席を詰めて、

「二人でどうぞ」

と言ってしまった。

「…………!?」

 可愛らしい二人は、目も合わせず、声も出さず、氷が滑るように、その場を遠く離れた。一つ空いた隣の人は全く無視、私がそちらを見ても反応はない。どうしたことか?

そうか、私が異常者なのだ。

十数代も続く大農家が入り婿をさがしている。娘は勤めているが地味な性格で積極的ではないらしい。できれば農業を継いでくれる人がいいという。

絶好の相手を紹介した。一席を設けると、二人きりで消えたが、すぐに帰ってきた。

おかしいな、と思ったが両親は喜んだ。

 結果、私の信頼する後輩は、娘から直接断られた。

「もう、決まったひとがいるんです」

 娘と両親の意志の疎通の悪さが原因である。

 私は予定を何べんも調整して便宜を図ったのだが。

北八ヶ岳、大河原峠下でのこと。

林道を運転していると、ザックを背負った青年がヒッチハイクのサインを出している。確かに佐久まで車道を歩くのは馬鹿げている。乗せてあげる。

途中、 蓼科 ( たてしな ) 仙郷 ( せんきょう ) 都市 ( とし ) (別荘地)の集会所にさしかかると、大を催したので止まってくれ、という。彼の姿がトイレに消えかかったとき、サイドブレーキが甘かったせいか、車が微かに動き始めた。

途端、彼はトイレから飛び出してきて、「どろ……」という。

「えーっ、泥なんか付いてないよ。車はきれいだよ」

 彼は、まだ用が済んでないはずなのに息せき切って乗り込んできて、出発してよい、という。

「なんだか変だなぁー」

 途中、中込駅で降ろしてあげた後、気がついた。

「あーっ!私がザックを持ち逃げする、と思ったのかぁ」

 よく見ると私のストック(棒つえ)には、なるほど、泥が付いているではないか。

 妄己利他は、もう懲りた。空海さん、ごめんなさい。

竹だ 箴言 ( しんげん )

竹の ( まこと ) の姿は見えない地下にある。個々の竹は全て地下茎でつながっており、竹林全体が1つの生き物、地下に潜む巨大モンスターだ。すなわち、地上の竹は仮の姿なのである。

このモンスターは人が少しでも力を抜くと所かまわず暴れまくり、手なづければ嵯峨野の小みちのように ( おだ ) やかさを ( よそお ) 。まるで 煩悩 ( ぼんのう ) のようだ。

戦争責任は愚かなる大衆にこそある。軍部だけが独走したのではない。綱渡りともいうべき日露戦争に何も学ばなかった一般大衆が36年後、アジア太平洋戦争に悪乗りし、自らを悪夢のような道へ引きずり込んで行った。それから60年、我々はいったい何を学んだというのか。そして、次は何が来るのか。もう遅い、というときが来ることだけは、なんとしても避けたい。

防衛省出版の「開戦経緯」には陸軍版と海軍版の2種類がある。陸海軍の戦略的不一致が最大の問題であったのに。

なんのことはない、「誰々ちゃんのせい」という子供の論理。いまでも。

 ミュージシャンや歌手などで、いつの間にか俳優になっている人がいる。「芋」は所詮「大根」にしかなれないと思ったら、そうでもない、「あんな奴が?」と思える輩がけっこう良い演技をしている。よく考えてみると、人は誰でも演技をして生きているのだった。

私たちは「 超宗教 ( ちょうしゅうきょう ) を持っている

仏教は世界宗教の1つとされるが、キリスト教やイスラム教のように絶対者としての神を立てるものではないがゆえ、ヨーロッパ=イデアの宗教(Religion)とは言いにくい。

より的確に表現するならば、仏教とは一つの文化的総合体と言えるであろう。ゆえに倫理・思想・哲学としての主体だけではなく、保健・医学、芸能・芸術、心理学・社会学などに展開された面を併せ持つ。すなわち生活全般を規正昇華する側面を色濃く持っている。

中国の道教やインドを中心としたヒンズー教なども同様である。これらの東洋のものは欧米的な宗教(Religion)とは異質な主体と多くの側面を持つゆえ「衆教」とでも呼ぶべきであろうか。むしろ宗教というには納まりきれない。

 最も納まりきれないものは私たちの「日本 ( しゅう ) ( ) 」であろう。私たちの行事を見てみると、正月・成人式・節分・節句・宮参り・七五三・十三参り・七夕・観月・結婚式・安産祈願・地鎮祭・厄払い・彼岸・ ( ) ( ) ( ぼん ) ( ) ・葬式・数々の祭礼や ( こう ) ・バレンタインデー・ハロウィン・クリスマスなどがあり、神道・仏教・キリスト教・インドの神様・ケルトの神様、犬や猿や鯉や人形、それにススキ・笹竹・榊、布や紙きれまでが入り乱れて、それなりのセレモニーを取り行ってしまう。それでいて一向に違和感を持たないどころか、経済効果まで上げて楽しんでしまう。何という ( したた ) かさ、何という貪欲さであろうか。

このようなことは世界に類例がなく、表現に困るが単なる盛大な ( しゅう ) ( ) (ならわし)というしかないであろう。日本教という人もいるが教祖も教典も戒律もないものを日本教とはいえない。この不完全で鷹揚な「日本習気」の信者ならぬ「習者」は当然、宗教者からは無宗教、「衆教者」からは無節操と言われる。

 ところが、また当然のことながら、この「日本習気」は私たちの政治・経済・科学・技術・芸術・芸能・言語・料理・ファッションなどの根底を成している。特に言語に関しては顕著だ。カタカナ・ひらがな・音訓の漢字・ローマ字を使いこなし、最近では先祖がえりをして絵文字まで使う。国の呼び方でさえ、ニホン・ニッポンのどちらでも良いのだ。同じ漢語圏の本家である中国は勿論、韓国・朝鮮・ベトナムなどでは、こうは行かない。ファッションや食生活においても世界の隅々のものまで平気で我がものとしている。

また、私たちは ( がん ) ( しゅう ) を含んだ 微笑 ( ほほえ ) みで人に接し、 ( そう ) ( ごう ) を崩して笑いながら挨拶する。考えてみると、このような対人的所作は沖縄の民を含む日本民族だけで、漢民族にも無く、朝鮮民族においては全く無い。欧米人にとって、この私たちの所作は、実に不可思議に思えるらしい。しかし、これこそが、日本習気の真骨頂であり、本質であろう。

この本質は江戸時代にはすでに確立されていたようである。幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人が驚いたこと、それは、あまりにも日本人が愉快で明るいことであった。

「この国の人々の飾り気のなさを私は賛美する。いたるところに満ちている子供たちの笑い声を聞き、どこにも悲惨なものを見いだすことがなかった。私は西洋の人々が西洋の重大な悪徳を日本に持ち込もうとしているように思われる」ヒュースケン18561861駐在

「日本人ほど愉快になりやすい人種は他に殆どないであろう。良いことにせよ悪いことにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めたとなると理由もなく笑い続ける」リンダウ スイス領事18611862駐在

「日本人は明らかに世の中の苦労をあまり気にしない。西洋の群衆に見かける心労にうちひしがれた顔つきなど、まったく見られない。老婆から赤子にいたるまで、にこやかに満ち足りている」ディクソン 工部大学講師18761879駐在

 このように、私たちの祖先は実に愉快な人々であった。(軍国主義教育が行われるまでは)

さらに、この「日本習気」の最大の素晴らしさ、それは戦争を起こさない、ことにある。

「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」とユネスコ憲章はいう。一神教は ( もう ) ( しゅう ) に囚われがちで、原理主義に陥りやすい。原理主義はそれ以外のものを認めず、他のあらゆるものを攻撃する。戦争は原理主義から起こるのだ。ゆえに「日本習気」こそ、平和憲法を持つ、この国に、ふさわしい。

こうしてみると、私たちは事物の思考の嗜好、その選別と慣習化において卓越した特殊な能力を持っているのであろうか。それともそれは、何にでもちょっかいを出しながら何事にも囚われない、いい加減な能力なのだろうか。いずれにしても、この「日本習気」の能力を世界の人々が持ってくれたなら、穏やかな平和が訪れると思うのだが。

 さて、宗教に納まりきれない、宗教を卒業し、悟ったともいえる「日本習気」はなんというジャンルに属するのか。最近の「ちょー、すごーい!」などの伝で、「超宗教」では、どうだろう。

私たちは「超宗教」を持っている。私たちの生活と精神を支えているのは「超宗教」だ!

悲喜劇

 社会的な悲喜劇は時代と共に変わっていく。

昔は嫁と姑が競争で子供を産んだ。

姑は嫁を、

「親が産み終わるまで待つものだ、差し出がましく、ひょこひょこと作るものではない」

と牽制し、嫁は、

「年寄りは他にすることがあるだろう、雑巾でも絞っていればいい」

などと反発する。

今は子供が欲しくて人工授精をするために精液を絞っている。

昔はダムや空港を無理やり造られてしまうことが悲劇だった。今は早く作ってくれ、もっと大きくしてくれ、と懇願する悲喜劇が連日のように報道されている。

ガソリン自動車から電気自動車へ、化石燃料発電から太陽光発電などへのクリーンエネルギー化が進み、神の領域に迫る遺伝子治療やiPS細胞による臓器複製などが本格化すれば、社会的な悲喜劇は益々入れ替わっていくだろう。

一番望むこと、それは、今、戦争は最大の悲劇だけれど、こんな愚かなことをやっていたんだ、と笑える日がいつか来ること。

 時代が変われば喜劇そのものも変わっていく。

クレージーキャッツやドリフターズにはペーソス(物悲しさ・哀愁)を ( かも ) し出す奥の深さがあったが、今のお笑いタレントたちに、そんなものは必要とされない。

ハナ肇らの名はイギリス名のクラウン、フランス名のピエール(ピエロ)に匹敵すると思うのだが、あとに続く者が寂しい。

悲劇と喜劇は表裏一体。立場が変われば簡単に入れ替わる。

「人生はクローズアップで捉えれば悲劇だけれども、ロングショットで見れば喜劇だ」

 とチャップリンはいう。

「人生はアップで見れば喜劇、ロングで見れば悲劇だ」

黒澤明は全く逆のことをいっている。

夢の現実化

我々が普段の生活で必要とされる知的能力は記憶力、計算力、想像力の3つであろう。これらのうち、記憶力と計算力に優れた人物がこれまでの社会の中枢を担って来た。しかし今や、どう足掻いてもこれらはコンピューターに太刀打ちできない。

逆に、どう足掻いてもコンピューターが人間に太刀打ちできないものが想像力である。人間は現実に無いものを想像して物事を創造していく。いうなれば、夢を現実化することができる。コンピューターはこの夢の部分を間違いと判断して止まってしまう。ところが人間にとっては間違うことこそが生きる原動力である。間違うことによって想像は次々に塗り替えられ、創造を促していく。

子供たちは雪が積もると、ある物体を想像する。手のひらで固めた小さな雪玉をあちらに転がし、こちらに転がして次第に膨らませ、大小のバランスを考えて形を整え、重ね合わせて目鼻を付ける。この間、寒くても冷たくても間違ったらやり直し、失敗にめげず、挑戦し続ける。誰に頼まれたわけでもないのに。

想像力に対して、身体は非常に敏感である。思ったことには、すぐに反応し、対策をたてようとする。

試みに梅干を想像してみよう。現実には無いにもかかわらず、口の中には唾液が出てきて、飲み込むにちがいない。

崖っぷちに立っていることを想像したらどうなるか。足が震えたり、めまいがする人がいるだろう。

テレビ番組の「ビックリカメラ」では、会う人ごとに「顔色が悪いよ」と言われ続けた人が、本当に具合が悪くなってしまう場面をやっていた。

良いことを想像すれば、もちろん影響は、頭のてっぺんから爪先まで、瞬時にかけめぐる。

自分が誕生したときのことを思い浮かべてみよう。リラックスして頬が弛んでくるだろう。

富士山で御来光を拝んでいる姿を想像すれば、敬けんな気持ちになり、生きる力が湧いてくるに違いない。

宇宙空間を想像し、いま自分は、その部分のどこに存在し、どの時間に生きているのか、と考えれば壮大な気持ちになり、どんなことでもできるような気持ちになれる。

もっとも肝心なことは、この逆の発想、すなわち、身体の動きで、想像力や創造力を促がすことである。

不機嫌なとき、やる気がないとき、自信がないときなどは、とにかく体を動かしてみる。

散歩でもいい、歌を歌ってもいいし、コーヒーをじっくり入れてゆっくりと飲んでもいい。

身体の動きが先行し、脳が動き始め、前頭葉が活発化する。この法則を覚えて置こう。

良く考えてみれば、想像力だけでは、何も生産されない。生産するのは行動力である。夢の現実化には行動が不可欠である。

日本の伝統的な芸術や武道などでは、理屈を無視し、型、すなわち行動から入っていく。

このことは最近の若い人たちに嫌がられているようだが、案外、捨てたものではない。

筋肉は第二の脳と言われ、脳を通さず、直接動く場合がある。そのパーセンテージが多くなり、いちいち考えなくとも身体が自然に動くようになれば、夢は知らず知らずのうちに現実化されてゆく。

積極性が良いとは限らない

何を見るかということは何を見ないかということ

何を読むかということは何を読まないかということ

何を書こうかということは何を書かないかということ

如何様に生きるかということは如何様に死ぬかということ

積極性が良いとは限らない 否積極性にこそ人品骨柄が表れる

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