ウィンドモノローグ

Prologue

風合い・風格・風景・風姿・風習・風情・風俗・風致・風土・風味・風流などの言葉が好きです。これらの言葉についている「風」にはウィンドの意味はありません。微妙な、それでいて独特の雰囲気を付け加える役割だけが与えられています。直接的な表現を必要とする通訳や翻訳では、むしろ「風」の意味を取り去ってしまった方が、すっきりするでしょう。

でも、私はこの「風」が好き、この「風」という「えもいわれぬ、かそけき言の葉」が大好きです。

「えもいわれぬ」――「え」は「知り得る」などと使う可能の意味で、「も」を付けて強調すると「何とも言葉では表せない」という意味になります。「かそけき」は「幽き」と書きます。

やはり、この「風」を表現するのは難しい、文字では表現できないかもしれません。

「見る目がない」

何かを見ても、感じる心がないゆえ、わからないことを「見る目がない」といいますね。「心がない」というと「無心」ということで、良いことになってしまうからでしょうか。

目と心が開通して突然、物事が理解できることを「目から鱗が落ちる」といいます。出典は聖書のようです。

そういえば「ディスカバー」とは「カバーを除く」ということです。カバーを外せば「発見」できる、当り前でしょう。

でも、そのカバーは発見される物に付いているのではなく、自分の目のほうに、とりついているようです。

自分で目をこすったり、涙を流したり、遠くを見て視力を整えたりしないと、いつまでたっても目の前にぶら下がっているものは取れないのかもしれません。

IndependentからInterdependent

 Independent(独立の・無所属)のIn-〜は反〜であることを中学校で習いました。Independentの元の形はDependent(〜に頼る・依存する)で反対語がIndependent なわけですから状態としてはDependentの方が正常と言えるでしょう。

今まではIndependent ばかりが持て囃されましたが、むしろ、これからは同じくInが付くInterdependent(相互依存の)の考えが世界の潮流になると思われます。

ところが英語で言われなくても元々、このInterdependentは仏教の根本原理とも言えるものなのです。仏教ではInterdependentこそが有形無形、すべてのものの存在を規定していると言っても過言ではありません。

 仏教教理は、まずIndependentは「空」である、と言います。次にすべての事物の存在はInterdependentで成り立っており、それが「縁」というものであって、「縁」によって存在する目に見える(解る)ものを「色」と言っています。

ですから、自分はIndependentした確かな存在と思い込んでいる人は、原理的に言えば「存在」していないことになりますね。なぜならばIndependentした存在と思えるものは皆、「空」であるからです。

たとえば私は今、自宅のパソコンのある部屋に存在していますが、そこに建物があって部屋がなければ、私は存在することができません。空中に浮いていることは不可能です。そして、パソコンが無ければこの文章自体も存在しないでしょう。また、1粒の米は八十八回もの人の手を煩わせて、やっと、できることを知らない人はおりません。

存在はすべてInterdependent(縁)によって成り立っていて(色)、しかも「色」もIndependentで存在と思った途端、「空」になりますよ、と仏教は説いています。

2千年以上も前に仏教はInterdependent worldが来ることを予測していたのですね。英語圏においてもDependent(〜に頼る・依存する)の方が先にできた価値観であることが文法的に証明できますから、何のことはない「IndependentからInterdependentへ」とは古い昔に戻ることのようです。

3つのトンネル

人生には    3つのトンネルがあります。   

1つ目は    「ヒト」が生まれるときの産道、

2つ目は    「人」が生まれるときの思春期、

3つ目は    死に至る臨終です。

1つ目は    自分の意志が通じません。

2つ目は    自分で考え、出口を探さなければなりません。

3つ目は    どこに、どのようにあるのか、よく分りません。

問題は、    2つ目からです。

  思春期、  このトンネルに差しかかると、

   辺りが  急に狭くなり、暗くなります。

    今まで     広くて明るかったのは

     動物と     同じ道だったからです。

     人間の     道にたどり着くには

     必ず     このトンネルを通過しなければなりません。

    進み、    迷い、

    考え、   立ちどまり、

    また、  進み、

     狭い 場所では

苦しみ、もがき、

広い  場所を求めて

右往、  そして左往、

    諦めず    進む。

    手探りで    進む、

    足で探って    とにかく進む。

    道しるべは    ありません。

    トンネルは   ひとり一人

     みんな    違うからです。

      もう、   いやだ、

       もう、   ごめんだ……。

その時、   やっと、光が見えてくる。

       もうすぐ    晴ればれとした空の下だ。

      次の問題は   3つ目のトンネルです。

     このトンネルは   どなたも経験したことがありません。

     だれもかれもが   見たことも聞いたこともありません。

和尚さんも、不安でいっぱいです。

神主さんも、どうしたらよいか分りません。

牧師さんも神父さんも、どうしようもないのです。

見えない、聞こえない、臭わない、さわれないので、

手探りも、足で探ることも、人に聞くことも、できません。

人の一生は、このどうしようもないトンネルを、通り抜ける方法を、

考え、探し、何故かを、求め続ける旅なのかもしれません。しかしながら、

              ト   ン   ネ   ル                          

未だかつて、このトンネルの向こう側に、たどり着けなかった方は、一人もいません。

手で掴むものは離れて行くけれど心で掴むものは離れず

ありのまま己の姿受け入れて 背伸びごまかし無き道歩む

生きるとは眼差し向けて望むこと 何を見たかで人生決まる

真剣になるのはいいが 深刻になってはいけない 遊べ楽しめ

さぁ 行こうトンネル抜けて向う側 知らない世界の道を求めて

安正

夕焼けの中

夕焼けの中をすすむ

夕焼けの中に入りこむ

夕焼けの中には音がない

夕焼けは音のない言葉を使う

耳では聞こえないから心で聞く

心で話しかけると返事をしてくれる

「今日は色が薄いなぁ どうしたんだい」

「アメリカの人たちにサービスし過ぎたんだ」

「そうか よかったなぁ あしたは いい色にしてね

でも インドのあとでも 中国のあとでもいいんだよ」

「そうだねぇ オーストラリアもあるし アフリカもあるし

世界中をていねいに回って1人ひとりに話しかけなくちゃね

でも 話しかけても返事をしてくれる人は なかなか いないんだ」

( かわ ) 胡桃 ( くるみ )

川胡桃は自宅前の荒川堤防にあり、場所によっては5b,10b於きに群生しています。ご覧のように6月初めではまだ落花生くらいの大きさですが、食べごろの二百十日になると黄色っぽく変色し、一粒が4,5aの楕円球になります。数個がひと房になってずっしりとぶら下がり、川面に垂れさがる姿は他の植物では見られません。

食べるには、水に漬けっぱなしにしたり土の中に埋めたりして、外皮を腐らせなければなりません。殻胡桃は特別な道具がなくてもフライパンなどで炒ると硬殻が割れ、中身を取り出すことができるでしょう。

毎年、二百十日が過ぎると、お年寄り夫婦が一日がかりで収穫をしていきます。川の為にはその方が良いのでしょう。すごい量なので、放っておいたら川が汚れるし、種が運ばれて川っぷちで発芽するので益々群生するに違いありません。

それにしても、あのご夫婦はどのようなかたなのでしょうか。私はカヌーを漕ぎながら「いつまでもお元気で……」と毎年思っております。

川胡桃二百十日を待つ人の

踏み出す勇気

一歩踏み出す勇気を持とう

ただそれだけで全てが変わる

弾みがつけば それでよい

家族や友が味方について

光や風が 助けてくれる

一歩踏み出す勇気を持とう

生きることとは 歩くこと

歩くこととは 生きること

「山のあなた」にたどり着く

最初の一歩を 踏み出そう

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